- 作者: タイラー・コーエン,田中秀臣,浜野志保
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2011/05/27
- メディア: 単行本
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しかしどうにも、本書の記述には違和感を禁じえない。それは著者も気づいていて、第三章の「エートスと文化喪失の悲劇」では、個々の文化の「エートス」をグローバル化は破壊してしまう可能性が指摘されている。著者はそこを「広いエートス」と「狭いエートス」の区別で乗り切ろうとしているが、自分はそれは極めて浅はかだと思う。自分がもし「エートス」と云うなら、そういう粗雑な意味では使わない。西洋文明の「普遍性」という、あまり評判のよくない概念と絡めて使う。
例を音楽に採ろう。西洋のクラシック音楽が「普遍的」なのは、古代ギリシアにおいて既に知られていた数学的基板の上に構築されているからである。その時点で「ピタゴラス・コンマ」の存在すら知られており、それを十二音階に割り振った平均律の完成と共に厳密な和声構造が整備され、やがて二十世紀の抽象的な「無調音楽」にまで突き進んでいった。これを使えば、人類の産み出してきた音楽の相当な部分を「構造化」することが可能であり、実際に民族音楽の「採譜」というようなことが行われたのである。
それは、例えば日本においても例外ではない。日本の「雅楽」は、古来よりオリジナルな記譜法があったのだが、西洋音楽との接触以降、西洋的な「記譜法」が採用されることになる。その結果出てくる音楽の違いは、ちょっと聴いただけではわからないだろう。それほど微細な違いである。しかし、記譜法の違いは、音楽に対する音楽家の「構え」を決定的に異ならせてしまう。そこで失われるものが、自分の言いたい「エートス」なのだ。これは失われては、二度と回復することは不可能である。これが「普遍化」によって生じる事態なのだ。そしてそれは、資本主義に親和性がある。ペルシャ絨毯でも同じことである。既に織師たちの前にあるのは、「魂」(ここでいう「エートス」)を込めるものではなく、単なる「商品」に過ぎない。
思えば西洋にあっては、かつては、普遍的な「幾何学の精神」ばかりではなく、「繊細の精神」の必要性がちゃんと知られていた。つまり、その役割を果たしたのが「芸術」であった。その「芸術」が十九世紀の終りから二十世紀の中頃までにかけて全領域で「抽象化」したのは、ロジックの行き着く果ての必然であった。いまや「芸術」が「商品」であることは、もはや逆転不可能である。ここで本書の著者の「芸術観」を引用しておこう。「最良の芸術は、私たちの世界観を一新し、すぐ目の前にある日常的な心配事から離れて、美的陶酔に耽る助けとなる。」(p.209)このような「芸術」とは、例えば麻薬とどう違うのか?