渡辺京二と「アジアにとって近代とは何か」という問い

本書には西郷隆盛について書かれた文章がいくつかあるが、そのひとつ「死者の国からの革命家」はこう結ばれている。「彼は、アジアにとって近代とは何かという、巨大な問を残して斃れた」と。この、言葉にしてしまえば簡単な、「アジアにとって近代とは何か」という問いこそ、渡辺京二の取り憑かれた巨大な問いのひとつであろう。本書の論考のほとんどがこれを巡って旋回しているし、世評に高い『逝きし世の面影』の主題も、これに関係していることは言うまでもない。こういうところに問題意識のある人は、むしろ多くないと思われるのだが、著者にとってはこれが決定的な問いのひとつになっている。それは、「アジア、そしてもちろん日本は、西洋に『目覚め』させられない方が、仕合せだったのではないか」という疑問が、背後に透けて見えるものだ。しかし、そういうこと(「目覚め」させられなかったこと)は、なかったし、「目覚め」は不可避で、どうしようもなかった。それは「悲劇」たらざるを得なかった。そのことは、著者にはほとんど憤激のように思われている、少なくとも自分には、そう見える。だから著者には、その「悲劇」が見えておらず、寝言のようなことを言っている者が、ゆるせない、そんな風にすら見えてしまう。そして、そうした者を、圧倒的な膂力で粉砕せずにはおれない。
 そんなで、自分は渡辺京二を読んでいると、粛然として襟を正す。そして、自分は何にも知らないのだなと、そうつくづく思う。思想というのは厳しいものだ。歴史を身に引き受けるというのも厳しい。過去に、厳しい生き方をしてきた人たちがいるから。自分たちの安楽な暮しが成り立っている背後に、何があったか。渡辺京二を読むと、そういうことを考えざるを得ないのである。