意識は実在しないのか?

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

読んでいて次第に馬鹿馬鹿しくなってきたのだが、いちいちその理由を書くのが面倒だ。思いつくままに短く記す。
 まず、心が環境とインタラクションするのは当り前であり、意識が外部の知覚に投影されるのも当り前なのではないか*1。どうしてそんなことを、心は脳の中には無い*2などと云って、ことさらにあげつらわなくてはいけないのか。また、「社会」こそ人間の脳の中にあるものであり(犬にとってホワイトハウスの建物が何だろう)、それを考えれば、著者のいう「規範性」もまた、当り前なのではないか。
 著者は「クオリア」を否定して(これは当然のことである)、知覚の「客観性」(或は「常住不変性」とも云うべきか)をいうが、知覚が認知システムのメカニズムに左右されるのは、当り前なのではないか。例えばLSDの服用による意識の変容体験は、幻覚とはちがった、「リアル」なものである。意識の変容下で知覚した奇妙なリンゴは、幻ではない。仏教の目的のひとつも、その真理の体得にある筈である。
 第三章は本書でいちばん面白い部分だが、ここで参照されている自閉症の記述は、認知がまさしく脳に負っていることを示してはいないか。また、アフォーダンス理論であるが、これは行為の拘束条件に他ならず、意志というものがまったく考慮に入っていない。折角「意欲が人間存在の全体性」(p.158)と、いいことを言っているのに。
 これは本書だけの話ではないが、認知科学は、(フロイトの)「無意識」と(ニーチェの)「力への意志」を理論化できない限り、本質的な発展は望めないだろう。

*1:なぜ「外部」という語を使うかといえば、「認識主体」がなくなっても、「外部」は消滅しないから。もちろん、その時「外部世界も消滅する」という立場もあり得るだろうが、自分はそれは採らない。

*2:著者は例として、紙と鉛筆を使って「計算」することを挙げ、これは脳のことだけではないと云うのだが、これはカントのいう「超越論的統覚」のことに他ならない。そして超越論的統覚は、もちろん脳によって齎されると考えるべきだろう。