モームの『お菓子とビール』は傑作ですよ!

お菓子とビール (岩波文庫)

お菓子とビール (岩波文庫)

うーん。唸らされた。まず、いつもの面白さ、ストーリーテリングの巧さはここでも健在。それはまあいい。で、本書はまあ一種の「文壇物」というか、作家同士の内幕を描いているのだが、しかし、この辛辣さはどうであろう。モームは自分の小説家としての才能をしっかりと分かっていて、そこから、才能がないのに世渡りのうまさでのし上がってきた仲間の作家や批評家をカリカチュアライズするのであるが、残酷としか云いようがない。これはモデル問題が出てくるに決まっている。描かれた方の作家(ヒュー・ウォルポールがモデル)はすぐに気づいて、読んだ晩は一睡もできなかったということだが、それはそうだろうな。飲み屋というプライベートな場で作家を泣かせた、小林秀雄の方が、まだ優しいくらいである。また、パトロン気取りの馬鹿げた批評家は、フィッツウィリアム美術館館長、シドニー・コルヴィン夫妻がモデルということらしい。それにしても、日本の作家でここまでやった人はいないよね。
 しかし、本書の本当の魅力は、巨匠として描かれている作家ドリッフィールドの最初の妻、ロウジーの人物造形だろう。粗野だが天性の魅力をもち、周りの男に惜しみなく愛を与えてしまう、つまりは尻軽なのだが、それが太陽が平等に陽を与えるように、自然になされるのである。彼女も実際にモデルがいたようで、訳者に拠れば、モームが唯一本当に愛した女性ではなかったかとのことだ。モームは本書で、自身のみっともないところまで描きながら、彼女の魅力を筆の力で描写しようとする。そこにはいつもの皮肉っぽさは時としてなく、いわゆる「ベタな」描写で、自ら苦笑してみせる程だ。しかし、本書の最後はこのロウジーの一言で終るのだが、これは何ともモームらしくて、ピシッと決まっているではないか。さすがモーム、作家である。
 とにかく中身の詰まった、モームにしか書けない類の、傑作である。彼自身、いちばん気に入った作品だったようだ。モームは自分で、己は一・五流の作家だと書いているところがあったと思うが、本書を読んでみると、自己評価がどうやら低すぎたようだ。それから、行方氏の翻訳も、いつも通りモームの面白さ、すごさをよく伝えるものになっていると思う。