「哲学=中二病」に罹患した永井均のすごさについて

本書は、中学生の「翔太」と、哲学する猫「インサイト」の対話という形で、本物の哲学を語ってやろうという小癪な試みです。「考えることの好きな中学生を念頭に置いて」書いたと著者が述べているとおり、哲学史的な予備知識は必要とされませんが、内容は一切妥協なし。著者の本がすばらしいことは、このブログでも前に書きましたが、本物の哲学者が、こんな面白い本を書けるとは。
 著者のいちばんオリジナリティのある問題意識は、「自己のかけがえのなさについて」ということだと思われますが、これが追求されている第二章が、やはり本書の白眉でしょう。この著者の問題意識ついては、前にも書きました(参照)。著者のいう「自己のかけがえのなさ」というのは、たとえ自分のクローン人間を造っても、それは自分ではない、ということだとも云えましょうか。これは意識や記憶とも関係がないものです。すなわち、意識や記憶が飛んでも、自分が自分であるという「感じ」は失われないのです。ちょっとズレた連想になりますけれども、統計的に見て、古典的な粒子は「個性」がありますが、量子力学的な粒子は「個性」がない(互いに区別できない)、というのを思い出してしまいました。
 それはともかく、この章で著者が示しているカントの理解が、著者の立場をよく表しています。引用します。「カント自身は、世界それ自体が心の外に客観的に実在することを、さっき言った超越論的な立場から、まず(二字傍点)否定しちゃうことから出発するんだよ。客観的実在それ自体が、まず、心の中のことでしかないんだ。だから『私は私の心の外に出ることなしに、外的な事物の存在を認めることができる』ってわけだ。なにしろ、時間空間それ自体がぼくらの感性の形式[カテゴリー]なんだからね。だから、これは超越論的には観念論だけど、経験的には実在論だといえるね? 超越論的観念論っていうのは、個々の知覚や経験に関する観念論じゃなくて、およそ経験一般の成り立ちとしくみに関する観念論なんだからね。」(p.137-8. []内引用者注) これは、極めて説得的なカント理解ではないでしょうか。著者の「自己」は、このようなカント的なものです。そしてさらに、その上にカントは、世界の外の「物自体」を認める、というわけです。
 第一章の「夢と現実」について、第三章の「倫理と論理」について(という題がついているわけではありません)も、徹底して自分で考え抜かれてあります。著者は聞いた風なことを言いません。第四章の「時間・空間、生と死」についてだけはちょっと平凡で、物理学的な知見も宗教的な知見も退ける著者は、ここだけは考察が浅くなっているように見えます。例えば著者は、ビッグバンで宇宙ができたというところで、時間がそこから始まるなんてのはナンセンス、みたいなことを云いますが、そういうことを大真面目に考えるのが物理学者なのであり、それにはやはり意義があると思うのです。
 いずれにせよ、これは素晴しい哲学書です。中学生どころか、哲学科の院生が読んでもおかしくないものだと、云っておきましょう。