非ユークリッド幾何学と科学哲学

新幾何学思想史 (ちくま学芸文庫)

新幾何学思想史 (ちくま学芸文庫)

だいぶ前の本(原本は太平洋戦争中に書かれ、新版も1966年)だが、とても面白かった。非ユークリッド幾何学の成立を、思想的な面も合せて記述したもの。ユークリッド幾何学の「平行線公理」を上手く問題にしながら、非ユークリッド幾何学の定立には一歩及ばなかった、サッケーリ(1667-1733)やランベルト(1728-1777)といった数学者を取り上げ、高く評価しているというのは珍しい。また、非ユークリッド幾何学創始者として、はっきりとガウスの名を挙げている。通例では、ガウスは早く非ユークリッド幾何学に到達はしていたが、それを公にしなかったという点で、低く評価することが多いと思う。ロバチェフスキーは、その数学的な展開がガウスより詳しく、不定定数(「曲率」に近い概念)を積極的に使おうという態度がガウスを超えるという。ボヤイについては、非ユークリッド幾何学に到達できなかった父ファルカシュも評価し、それを突破した息子のヤーノシュは、幾何学が現実に存在するという立場から、幾何学の仮説性という立場への転換を自覚したという点で、評価される。
 このように、本書の数学者に対する評価は、思想史的ともいえる観点を濃厚に漂わせているところがユニークだ。(といっても、数学的な記述がしっかりなされた上でのことである。)特筆すべきは、非ユークリッド幾何学の成立に関するカント哲学の影響を、詳細に考察していることである。例えばガウスも、カントをしっかり読み込んでいたということであり、時間と空間を認識の形式とするカント哲学は、非ユークリッド幾何学への一種の触媒となったらしい。
 リーマンは、接続の幾何学につながる、リーマン幾何学の基礎を打ち立てたわけであるが、物理学者でもあった(その論文の1/3が物理、数理物理の分野であった)リーマンが、既に重力や光の理論の「近接場」化に努力していたというのは、驚きだった。それはもちろん成功しなかったが、これはまだマクスウェル(もちろんアインシュタイン)以前のことである。マクスウェルになりそこねたのは、著者に言わせれば、近くにファラデーがいなかったからだろう、ということである。
 なお、ラッセルによるリーマン批判に対する論駁で、リーマンが「空間の構造が物質の力によって決定される」という科学思想をもっていたということを、著者は論拠としているが、そこはよくわからなかった。リーマンの物理・数学思想はアインシュタインの発想とは違っている。ラッセルは、計量が変わると物差しも変ってしまうということで、リーマン幾何学を批判しているが、一点だけのリーマン幾何学というのは無意味であり、近傍は関係的である。そして、実際に構成される計量は、点の近傍がユークリッド空間(これが物差し)であることに負っている。