日韓の「和解のために」

和解のために?教科書・慰安婦・靖国・独島 (平凡社ライブラリー740)

和解のために?教科書・慰安婦・靖国・独島 (平凡社ライブラリー740)

副題「教科書・慰安婦靖国・独島」。極めてデリケートな問題ばかりを敢て論じた著者に、敬服の気持ちを抑えがたい。著者は韓国の研究者・知識人として、韓国と日本の間に立つが、もともと本書は読者として韓国人を想定しているために、日本に甘くなるところがある。そこは、上野千鶴子の見事な解説が指摘するように、それに日本人は乗るべきではなかろう。それはともかく、著者のスタンスは、論理を徹底しようというもので、微妙極まりない、危険な綱渡り(その失敗を、手ぐすねを引いて待っている輩は、日韓双方に多いだろう)に賭けてみせている。思うのは、その論理は最終的に、「戦争を肯定する論理は認められない」というところを担保にしているということだ。だから著者は、1%もないであろう、日本と韓国の戦争の可能性を潰すために、本書を書いたのかも知れないといいながら、これでは論理的に、戦争肯定論者を説得することは出来なくなっている。
 しかし、論理ですべてを割り切ることができないということは、云うまでもない。むしろそれこそが、著者のレトリックなのであろう。自分も、戦争を否定するのに、論拠は必要ないと考える。それは、過去の戦争をイデオロギー的に(肯定的にも否定的にも)評価することとはちがう。過去の戦争、また戦争に留まらない日韓の歴史については、可能なかぎり事実が知られなくてはならない。それが著者のもうひとつのスタンスである。
 そんなことは当り前だと云われるかも知れない。しかし、本書を読んでみれば、日韓双方において、いかに事実というものが知られていないかということがわかる。本書はその性質上、韓国人の無知を多く指摘しているが、それで日本が免罪されないのはいうまでもない。ただ、日本は敗戦国であったがゆえに、反省的な態度を取りやすかったということはあるだろう。(そしてそれは、日本の右翼の反発すら生み出した。)逆に韓国では、(極端に云えば)日本人はその本性上「悪」でしかありえない、といったようなファナティシズムを引き起こさずにはいなかった。(それは日本人を不愉快にさせかねない。)
 実際、本書を読んでいると、韓国人が日本に対してどういう態度をとっているかを知れば、日本人は驚かされるだろう。それは、(まともに相手にすれば)日本人には許容しかねるほどのもので、さすがに日本のマスコミも報道しないからである。また日本人の方では、例えばいまだに、韓国人に対して謂れ無い差別意識をもっている者が少なからずいる。その上で、和解など本当に可能なのかとも思われよう。しかし、著者の勇気を目の当たりにすれば、やはりそれはされねばならないとわかるのである。