若松英輔による渾身の井筒俊彦読解

井筒俊彦―叡知の哲学

井筒俊彦―叡知の哲学

じつに深い読書体験になったので、書こうかどうか迷ったのだが、少しだけ。ウェブで連載されていたのは多少目にしていたし、著者が編集している井筒俊彦『読むと書く』の出版には感謝していたのだけれども、中身も見ずに本書を買ったのは、ほとんど偶然だった。本書は井筒俊彦についてまとまって書かれた初めての本だと思うが、生涯を追って書かれているにもかかわらず、評伝というわけではない。むしろ、二十世紀最大の世界的哲学者を前に、それを悪戦苦闘しながら(というところは実はあまり見せないが、恐らくそうして)読み解いてみせた、一種の哲学書だといってよいと思う。それも、井筒の踏破した全領域を視野に入れてみせようという、気迫が漲っている。ぱっと見には平易に思える文章なのだが、かほどおびただしい知的、精神的(いや、何といってよいかわからないのだが)刺激を受けるとは、まったく予想していなかった。井筒に纏る事実として知らなかったことばかりであったし、井筒の読解としても、自分の勝手な理解からさらに押し広げてくれるものとして、多大なものを受け取らせて頂いた。井筒俊彦は何よりも、言語哲学者であり、言語哲学こそが、宗教、哲学、文学など、人間の営みのすべてを貫く、究極的な「学問」であるということを身をもって示した、天才だった。そしてその主著は、『意識と本質』これに他ならない。これを十全に読み解いた者は、いまだ存在しないのである。しかし、著者の読みは自分にはすばらしく思われるし、よくやったと喝采もしたいし、自分の読解のレヴェルを超えてもいる。実際、読むのに普段の倍の時間がかかってしまったくらいだ。
 最後にちょっと個人的な問いを書いておけば、井筒の言語哲学でいえば、物理学などはどういう位置づけになるのか、ということ。何か本書の地平からすれば、物理学というのは非常に奇妙な姿に見える。それから、気になってしまったのが、井筒の死に様である。本書の年譜で初めて知ったのだが、ほとんど事故のような、あっけない死ではないか。ちょっと鈴木大拙の死に様を思わせる。「帰り道」を徹底すると、こういうことも平凡に到達するのだろうか。