分析哲学における「深層」の欠如

分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

いやこれ、とてもいい本だ。自分の分析哲学に対する不満が、よく理解できた。結局分析哲学は、徹底的に表層的で、深層とというものを認めないのだと思う。分析哲学で「意味」がうまく扱えないのは、それも一因であろう。まあ、無いものねだりなのだろうが。自分は、やはり「意味」は存在すると考える。例えば、米原万里さんが書いていたことだが、同時通訳者が翻訳されるべき発話を聞くと、まず何語でもない「意味のかたまり」のようなものが現れ、それを他国語に翻訳するというのだ。自動翻訳ソフトによる翻訳が、なかなか自然な言葉遣いにならないのは、「意味」というものの難解さに関係があるのではないか。
 では、分析哲学は無意味か。そうとばかりは云えないだろう。例えば(悪い意味ではなく)「言葉遊び」を哲学できるかもしれない。ただ、無知を晒すが、分析哲学では、「比喩」というものはどう考えられているのだろうか。(例えば、「世界はフラクタルである」というような。)単に「曖昧で無意味な文」と捉えられてしまうような気がする。さらに云えば分析哲学は、言葉の「曖昧さ」に対して不寛容であるように見える。しかしもちろん、言葉の曖昧さというのは、大切なことでもあるのだ。
 なお、クワインは、量子力学をうまく扱うためには、排中律を放棄せねばならぬように言っているそうだが(p.106)、それが状態ベクトルの重ね合わせとその収縮を言っているのなら、ちょっと違和感がある。それは、1+3も2+2も4に「収縮」するから、それは排中律に反すると云っているのに似ているのではないか。ここには「Aでなければ非A」の、非Aに当たるものはないと思う。
 それから、最後の時間論のところで気になったのは、(もはや分析哲学とは関係ないが)物理学者のファインマンが、反粒子を時間の流れに逆行する存在と考えるとき、これは時間の向きに運動している粒子と相互作用するのだろうか。どうも無知でわからない。(いや、相互作用はするのだが、因果律は破らないわけか。)というのも、「時間の矢」の向きが特定方向なのは、エントロピー増大の法則からというよりは、因果性の絶対性(原因と結果が逆になることはない)と関係するように思われるから。これはまあ、素人考えに過ぎないけれども。


※追記 「意味」なるものを考える上で、数学が「理解できない」(自分などにはしょっちゅう起きることです)ということがあるのが、何だか不思議な気がする。数学は完全に概念だけで構築され、曖昧さもないのに。