「ふつうの」人の「ふつうの」人生を描く小説とは

生きる歓び (角川文庫)

生きる歓び (角川文庫)

短篇集。ここに描かれているのはすべて、現代の「ふつうの」人の「ふつうの」人生だ。「ふつう」といっても確かに言葉の中身は判然としないが、とりあえずそう呼んでおく。「ふつうの」人の「ふつうの」人生というのは、本書が描くところに拠れば、どこかもの悲しいらしい。でも、本当にそうなのだろうか? 自分もまあ「ふつうの」人だと思うが、自分では自分の生活(人生というには大げさすぎるので)はそんな風に感じられないのだが。たぶんここには、既に「物語の詐術」が入り込んでいるような気がする。そりゃ他人の目から見た人生など、勝手なものになるに決っているではないか。他人からいくら憐れまれても、余計なお世話だと思う。
 小説に対する判断としては、脇道に逸れてしまった。文庫末尾の自著解題で、著者は本書を「舞台に上がりたがるシロートのための演技訓練みたいなもの」と云っている。まあいくら「美しい断片」であろうと、上から目線には違いなく、これは明らかに「啓蒙」の態度だと言えよう。「物語」に塗れた我々の自意識を、解体してやろうという試みである。だから、「ふつうの」人の人生は、いかにも「ドラマ」にあるようにドラマティックにではなく、まことにフツーに描かれねばならなかった。
 などと書くと、自分は本書を評価していないように思われてしまうのは必定だろうが、そうではない。本短篇集は、小説としてまことに面白かった。作中ではどれも大したことは起きないのだが、坦々としつつも心理描写は精緻であり、先を読ませる筆の力がある。類を見ない達成とすら云えると思うほどだ。