科学理論の「美しさ」について

科学哲学講義 (ちくま新書)

科学哲学講義 (ちくま新書)

題名通り、科学哲学についてわかりやすくコンパクトにまとめた本である。科学哲学というのはこれはこれでとても面白いものだが、個人的には既に熱は冷めた。「科学とは何か」とか、もういいし、みたいな感じである。本書にもある通り、うるさいことを云えばいろいろ問題はあるが、「反証可能性」を備えた理論が「科学的」であると、大雑把に感じているというところだ。科学者の感覚とすれば(自分は科学者でも何でもないけれど)、この「反証可能性」というのは、科学者の実感にかなり近いのではないかと思う。とすると、本書にもあるとおり、科学理論は永久に「反証」される可能性があるから、永劫不滅に「正しい」という科学理論は存在しないことになるが、実際その通りだと思う。科学理論の正しさは、常に反証に対し開かれているのだ。
 それから、第三章の「原子なんてない?」というのは、これは面白い着眼だ。「科学者が原子はあると言っているのだから、それだから原子はあるのだ」というのは、正しいと思う。そしてさらに云えば、科学者が原子はあるかどうか判断するというのは、かなりアバウトなものである。例えば「原子」も「超ひも」も方程式によって記述されるところはそれほど違いはないけれども、物理学者でも、原子の存在を否定する人は少ないだろうが、逆に「超ひも」が存在するという人は少数派だろう。その判断は、かならずしも合理的なものではない。物理学者の実感に過ぎないと思う。
 では、本書に書いてないことを言おう。科学哲学者には論じ難いことだと思う。それは、物理学に特有のことであるかも知れないが、理論の「美しさ」についてである。これは「科学的に」論ずることが難しい事柄である。例えば、一般相対性理論を「美しい」と感じる物理学者は多い。少数の、それもきわめてシンプルな物理的前提から、壮大な伽藍のようなリーマン幾何学を使い、見事な物理的内容を表現している。「ブラックホール」という言葉を聞いたことがある人は、物理学者でなくても少なくないだろうが、これは一般相対性理論の論理的帰結なのだ。(付言しておけば、「ブラックホール」は実際に存在することが確実になる前に、方程式を解いてその存在が予想されていたものである。じつは理論の生みの親であるアインシュタインも、最初はたんなる数学的な帰結にすぎないと考え、「ブラックホール」のようなものが実在するなどとは考えていなかったくらいだ。)
 これならば、まだ「見事な理論」というだけで済むかもしれない。しかし、次のような例はどうだろう。理論の「美しさ」について、独特の美意識を持っていた大物理学者がいる。ポール・ディラックアインシュタインに匹敵するほどの天才物理学者であるが、彼が量子力学の「ディラック方程式」の正しさを確信したのは、その「美しさ」ゆえであった。彼はその方程式の「美」に撃たれ、これほど美しい方程式を自然が採用しないことは、ありえないと思ったのである。これまた天才であったパウリが、「アクロバットのようだ」と殆ど呆れたほど、不思議な発見であった。実際物理の教科書では、いちおう発見法的に理論の導出がなされるが、後知恵でなけば説明できないようなものである。それは、特殊相対性理論に合致し、さらにスピンの存在を自然に導入するところは、物理学を学ぶ者の驚嘆するところであろう。ディラックというのは、こうした感覚の持ち主であり、彼が書いた教科書のユニークさは際立っているくらいだ。彼はまた、いろいろ不思議なことを言っている。電磁気学は電場と磁場が殆ど対称的になっているのだが、電気に関しては「電子」のような、単位電荷をもった粒子が存在するのに対し、磁気にはそのような粒子は存在しない。これ(磁気単極子magnetic monopole)が存在すれば、電気と磁気は完全に対称的になり、マックスウェル方程式も対称的に書くことができる。その意味で、理論は「美し」くなるのだが、さて、いまでも磁気単極子は発見されていない。
 そして、ディラックだけでなく、今でも多くの物理学者が、理論の「美しさ」を追っているとすら云える。物理好きな人なら、「超ひも理論」という言葉を聞いたことがある人は少なくないと思う。どうしてこのような「夢」を、物理学者たちは追うのか。それはある意味、理論の「美しさ」を追っているのだ。じつは素粒子物理学は、「標準理論」というものがほぼ完成している。一部実験では確認されていないところはあるが、今のところ、この理論に反するような実験事実はひとつもない*1。日々、「標準理論」の正しさが確認され続けているのである。それなのに、どうして「標準理論」以上の理論を物理学者は求めるのか。それは、「標準理論」がある意味「美しくない」からなのだ。多くの実験的なパラメーターの設定や、場のエネルギーの計算の無限大への発散、それを回避するくりこみ理論、四つの力の未統合などが、いかにも「間に合わせ」のように見えるのである。どうも、これが「究極理論」だとは思えないのだ。ここに、現代物理学の不思議さの一端がある。物理学者は、まだ先を見たいのである。自然の奥底はシンプルであるという「信仰」が、物理学者たちを突き動かしているのだ。

*1:この記事が書かれたのち、ヒッグス粒子の存在がほぼ確認されたという報道が、世界を駆け巡った。これで「標準理論」は、究極理論としてほとんど確証されたといってよい。果して物理学は「終った」のであろうか。(8/2追記)