すべての能力は遺伝であるか

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

この本の主張は、強い言い方をすれば「人間のすべての能力は遺伝によるものである」ということである。これはすぐに分かるように、強烈な主張であり、誤った理解は著者の直接的不利益になりかねない。であるから、以下の簡単な感想はあくまでも自分個人の読みであり、かかる問題が気になる方は、必ず本書を直接参照して欲しい。
 本書の主張の行動遺伝学的なポイントは、七七頁にまとめてある。すなわち、(1)行動にはあまねく遺伝の影響がある。(2)共有環境の影響がほとんど見られない。(3)個人差の多くの部分が、非共有環境から成り立っている。――である。気になるのは(1)であるが、自分はこれは当り前の主張だと思う。ただ問題は、「行動はすべて遺伝によって決定されている」ではなく、「行動はすべて遺伝に影響されている」との違いであり、もちろん後者が正しい。著者の主張もこれである筈だ。これは、双生児(一卵性、二卵性)をサンプルとする統計的研究によって確立されたものであり、ほとんど疑問の余地がないと思われる。
 もちろんこれは、環境の影響を排除するものではまったくない。遺伝も環境もともに重要なわけである。これも当り前である。また、能力が仮にあったとしても、発揮されねば0である。
 しかし、ややこしくなってくることもある。例えば著者は、教育の重要性もきちんと説くのであるが、その教育の達成度には、個人によって遺伝的な差がでてきてしまう。それは、教育をどのように変えようと、必ずつきまとってくる問題なのだ。著者はだから、受験システムのような画一的な環境を批判するのであるが、環境が多様化してくればそれで、多様性に対する適応も遺伝に左右されるのである。
 また、本書によって説かれる事実は、直ちに社会学の議論に直結可能である。例えば、優秀者が大きな果実を取る自由を排除すべきでないという議論に対し、本書の事実はこれを補強するのにも使えるし、また、優秀さというのは所詮遺伝子による「偶然的な」ものにすぎないから、大きな果実を取るべきだという根拠にはならない、というようにも使える。非優秀者には、セーフティーネットを用意すべきだという議論にも使えるだろう。
 しかしどうも、正直言って気の滅入る話ではある。例えば、勉強ができるできないというのが遺伝に影響されるとしても、すぐに問題にはならないであろうというのは、それがきわめて複雑な過程になっているからである。「勉強ができる」という一つの遺伝子があるわけではなく、それは様々な遺伝子が複雑に絡み合った結果だからだ。けれども、今の学問の進歩は早く、「勉強ができる」ということがきちんと定義され、遺伝子発現の複雑な過程が分析されてしまったら、どうなるのだろうか。実際、今の段階でも、アメリカでは、顧客の遺伝子を解析して、当人の能力や特定の病気になる確率を分析し知らせてくれる企業がいくつもあるという。また、人種間の能力の差というものも、だんだん研究の対象になってきている。われわれはまた、パンドラの匣を開けてしまったのだろうか。