「科学的お伽話」としての自由

自由は進化する

自由は進化する

最初に断っておくが、自分は本書を隅から隅まできちんと読んだわけではない。自分と問題意識があまりにもちがうので、途中からは斜め読みになってしまった。だから以下は、本書を読んで自分が連想した、単なる与太話に過ぎない。
 本書は題名からもわかるように、自由についての本である。だいたい、自分には「自由」という概念が正確に何を示しているか、それがわからない。何でもできるというのが自由なのか、拘束から逃れることなのか、それとも選択の問題なのか。本書では「自由」が「決定論」と同居できるのではないかという議論が延々と続くが、つまりは「自由意志」というのはあるのか、ということだろう。自分は、これは問いがよくないと思う。「決定論」というのは今では物理学的な発想だが、精神が実際に決定論的であるのか、自分はそれにははっきりとわからないと言うし、本書のように自由を進化論で救ってやるのも、今のところは疑似科学でしかないと思う。ましてや、量子的非決定論と結びつけるのは、遊びでしかない*1。問題は、我々はどうしても自分に、「自由意志」があると思わざるを得ないことにある。それは、本当に(物理学的に)意志の「自由」があるかどうかとは関係がないのである。例えば、カエサルルビコン川を渡ったのは、決定論的であったのかも知れない。しかし、カエサル自身は、それを自分の「自由意志」で決断したと思っていただろう。
 また、我々には「自由意志」がないと自分で思えば、倫理というものは崩壊する。(いかに悪しきポストモダンが「主体」を否定したにせよ)主体的な責任の根拠がなくなるからだ。私はAを殺した、しかしそれは決定論的におこなわれ、私の自由意志は存在しなかったのだから、私に罪はない、と。これは極端な例ではない。というのは、精神病などで責任能力がないと判断されれば、彼は実際に罪を問われないのである。これは精神病者に、実質的に意志の「自由」はないとしていることに他ならない(これはこれで、本当は問題であろう)。ということは却って、「正常者」に意志の「自由」が存在していることを暗に仮定しているのである。


 また、本書でちょっと気になったのだが、「決定論」と「因果律」の関係について、著者には誤解があるように思えた。「決定論」というのは物理学的な問題だし、「因果律」は哲学的な概念で、両者は別物と考えるべきである。「因果律」が我々の認識の問題だというのは、カントが既に述べているとおりで、我々は物事を「因果律」に従って考えざるを得ないのだ。例えば物理学の「(量子)遅延選択実験」では、原因があたかも時を遡って「捏造」されるように、我々にはどうしても感じられてしまうが、量子力学的はまったく問題がない。これは、「決定論」と「因果律」が別物であることを浮き彫りにする事実である。
 それから、これは本書だけの問題ではないが、脳科学などは精神を「外部」から調べる学問である。自分はこういうことはどんどんやるべきだと思うが、その際、精神を「モノ」として扱えば、精神は「モノ」として応えるだろう。そうする限り、「自由意志」はないという結論が出ない方が、自分は不自然だと思う。「物質」と「精神」は異なるというのは、昔からよくある二元論で、「神秘主義的」ともされるが、その意味では自分は完全に「神秘主義者」である*2。それは「学問」の立場ではないと言われれば、素直に甘んじよう。しかし、自分は例えばドーキンスの「ミーム」などは、完全に「科学」を逸脱した、悪しき「宗教」に他ならないと思う。そして、本書の「擬似進化論風」のデネットの立論も、お話としては面白いが、反証可能性のない「疑似科学」以上のものではないと思っている。

*1:だいたい、量子力学というのは本当にやっかいなのだ。「量子的非決定論」というのは、波動関数の収縮が確率的であるからそう云われるのだが、そのメカニズムはまだわかっていないし、これはよく無視されているけれど、波動関数の時間的発展は完全に決定論的である。

*2:しかし、自分は将来、「物質」と「精神」を結ぶ架け橋が現れるべきだと思っているし、その可能性もあると思う。予想しておけば、それはやはり、物理理論と脳科学の双方の進展が必要だろう。そしてそれは、敢て言えば、精神を「内側」から見て(内観して)得られた事実とも、整合すべきであろう。