中井久夫氏の新刊

「昭和」を送る

「昭和」を送る

新刊が出れば買わずにはおれないという文筆家は、自分にはそう多くはないが、中井久夫氏は間違いなくその一人である。本書は、氏の久しぶりのエッセイ集となる。氏の書くものは、かつては一行一行に対応する論文があると言いたいほど緻密なものであったが、さすがに本書に収められた文章は、そうした感じではなくなってきた。特に、氏の病(前立腺がんと脳梗塞)に関する文章は、闘病記などではまったくないが、以前にはあり得なかったもので、ちょっとショックを感じずにはいられなかった。(今では奥様と共に、介護付有料老人ホームに入居されているという。)全体に、回顧の文章が多くなったことは否めない。それもまた、著者らしいものになってはいるが。本書の中では、表題作の昭和天皇論が、これだけ二十数年前のもので、圧倒的な緻密さを感じさせる。著者は、単に博識であるだけではなく、その歴史に関する途轍もない知識は、縦横に有機的に結びついて、独自性のある歴史の解明を齎しているのだ。
 その他の文章は、以前に書かれたことの繰り返しも多いが、さすがに新しい側面が見られないものはないようだ。個人的には、ヴァレリーの詩の新訳を出されているのは気づかなかった。これは買わねばなるまい。でも、何となくまだ、『若きパルク/魅惑』の訳業も積ん読になったままなのだが。とにかく、老いたりとはいえ、氏は我が国最高の知識人のひとりである。今の難しい時代、氏の知恵はまだまだ我々のゆく道を照らしてくれる筈だ。著者の壮健を祈りたい。