攻殻機動隊の世界の現実化は、まだむずかしそうだ

脳と機械をつないでみたら――BMIから見えてきた (岩波現代全書)

脳と機械をつないでみたら――BMIから見えてきた (岩波現代全書)

BMI(Brain-Machine Interface)についての本。例えば、脳に繋いだ電極により、手を使わずに画面上のカーソルを動かすといった研究である。アニメの「攻殻機動隊」は、近い未来にこのようなBMIが高度化し、普及するという背景をもっているが、結論から云うと、それはそんなにやさしいことではないらしい。ラットや猿を使った実験ではかなりのことが可能になっているが、脳の機能の非常に大きな部分がまだわかっていないので、基礎中の基礎が始まったばかりのようである。もっともアメリカでは、障害者など、人間を使った実験も既に先走って行われているが、相当に乱暴な話であり、倫理的にもまだコンセンサスはないようだ。むしろ、BMIの研究によりなされている、脳科学への寄与がおもしろいし、本書で一番楽しく読んだのもそれであった。その結果によれば、例えばおばあさんについての記憶を司っている、単一の「おばあさんニューロン」が存在するという考え方は、まったくのナンセンスであるようだ。ニューロンの機能は常に集団で考えねばならず、また脳は非常に可塑性に富んでいて、例えば今や普通に使われる「視覚野」「聴覚野」などという高次機能でさえ、絶対的なものではないらしい。重要なのは、幾らかの神経細胞が集ってつくる、「セル・アセンブリ」という構造で、これにはとても多様性があるという。また、神経細胞シナプスは、我々が普通想像するのはいわゆる「化学シナプス」のことだが、膜同士がほぼ接合し、スパイク(発火)が極めて高速に伝搬する「電気シナプス」も、哺乳類の脳にも多く含まれているそうだ。神経伝達物質も多数が絡み合っていて、例えば統合失調症ならドーパミン鬱病ならセロトニンというような紋切型も、今では疑問視されているという。とにかく、脳の機能は複雑だ、というのは凡庸な感想かも知れないが、これが事実なのだから仕方がないのである。
 なお、脳科学は確かにとてもおもしろいのだが、脳を物体と考えれば、物体として反応するのが当り前だという発想は、あまり研究者には見受けられないようである。それから、脳科学にとって「言語」「コトバ」というのは何なのかというのは、自分では重要な視点だと思っているが、そのような問題意識にも乏しいようだ。まあ、それは問題が大きく、漠然としすぎていると云われれば、そうなのだけれども。

才人オスカー・ワイルドとヴィクトリア時代の性道徳

いやあ、これは面白かった。傑作評伝というやつですね。オスカー・ワイルドの生涯を描くということは、必然的に、ヴィクトリア時代における性道徳を相手にすることになる。その興味深い背景とともに、ワイルドという才気煥発な人物が縦横に活躍するのだから、読んでいて映画でも観ているような興奮を覚えずにはいられなかった。また、著者の筆の力もすばらしい。同性愛に溺れつつ、無垢さを失わないワイルド、すぐに人間に感動してしまうくせに、悪魔の様な恥知らずの裏切り(それすらも悪意は限りなく少ない)を繰り返す、才気と矛盾の塊であるワイルド。それが見事に描かれている。
 自分はワイルドについてはよく知らなかったし、著書も『サロメ』や短篇集を読んだくらいなので、本書の記述はじつに新鮮だった。まさかワイルドが、ドレフュス事件にまで関係しているとは。まあそれすら刺身のツマのようなもので、特に同性愛で監獄に入れられ、落魄し、それこそ地獄の苦しみを味わうところなど、鬼気迫っている。しかし『獄中記』も読んだはずだが、そこで綴られているであろう「深き淵より」(これが原題である)をすっかり忘れているのは、我ながらどういうものかと思う。これは再読してみたい。それに『ドリアン・グレイの肖像』すら、まだ読んでいないのだ。これはいけない。『レディング監獄のバラッド』も入手して、共に読んでみたいと思う。それにしても、ワイルド本人の言うとおり、彼の作品ではなく、彼の人生こそが、彼のもっとも心血を注いだものであるとは、まったく本書の示すところだ。あたかも、小説であるかのごとくに。もちろん本書は実証の書であるが、詩も充分にあると云っても、よもや著者には怒られないと思う。

綿矢りさは正統派の小説家です

かわいそうだね? (文春文庫)

かわいそうだね? (文春文庫)

表題作が大傑作で、興奮した。普通の恋愛小説というか、三角関係が崩壊していく普通の小説で、書き方もオーソドックスなのに傑作とは、これは古典的名作ということではないか! 将来は、岩波文庫しかないね。それにしても、二十八歳OLについての恋愛小説が、どうしてこんなにおもしろいのだろう。あーあるあるという、リアル感だろうか。やはりそこかな。つい、主人公に感情移入してしまうのだ。しかし、未婚のおっさんを唸らせるのだから、大したものですぜ。ちょっと若い頃を思い出しましたよ。まあ、突っ込もうと思えば突っ込めるのであって、例えば二十八歳の独身女性といえば、まず結婚がどうしても頭にあるもので(とりあえず「キープしておく」というやつ)、本作の主人公はそれがまったくないのは不自然なのだが、そこは小説なので、実際そこをオミットしたせいで、展開がおもしろくなっている。最後は爽快。さてこれは男性側から見た感想だが、これは是非女性の意見を聞きたい。検索するのが楽しみである。
 それにしても、著者には才能がある。別ブログの過去の記事で、著者は取り敢えず、等身大の小説を書いた方がいいのではないかなどという感想を記したことがあるが、等身大の小説でここまでのものを書いてしまうとはねえ。大江健三郎賞も当然である。(しかし、大江さんはすごいな。若い才能を的確に捉えている。未だに第一線の小説家である証拠だ。)この後が楽しみだ。
 併録された「亜美ちゃんは美人」も、こちらは気楽に読める小説だが、なかなかいい。まあ著者なら、これくらいのものは簡単に書けるのではないか。それくらい才能があると思う。表題作もこれも、エンターテイメントとしても充分薦められるし、それだけには留まらない深さもある。綿矢りさは、正統派の小説家です。

日本経済は若者を見殺しにするのか?

若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)

若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)

扇情的なタイトルだが、著者の怒りが籠められていると云っていい。ロジックの書である。自分の愚かな意見を色々粉砕してくれたわけで、それはロジックによるものであるから、受け入れざるを得ない。個人的に知らなかったこと、考えを改めさせられたところは幾つかあって、二三列挙してみよう。
 まず、日本の経済の実力について、GDPはそれを正確に見るための指標としては適当でないという。むしろ、購買力平価GDPWikipedia)を使うべきであるらしい。国民一人あたりの購買力平価GDPを計算すると、やはりアメリカが世界をリードしており、その後に先進国各国が続くが、シンガポール、香港などはアメリカを抜き、また台湾は日本を抜いていて、韓国が日本を抜くのも時間の問題であるらしい。ある意味納得できないこともないが、ここからわかるのは、日本の経済成長の鈍化は、少々早すぎたということだそうである。じつは日本の停滞は七〇年代からであるそうで、それは「構造」的な日本経済の非効率性が原因だと著者は云う。また、九〇年代における金融政策の大失策。これらが、若者の失業率を押し上げている。
 また、第二章の題でもあるが、「年金は削るしかない」。今の高齢者向けの社会保障給付費は高すぎるので、これを維持することは不可能である。今は、高齢者夫婦で五〇〇万円(=二五三万円×二)を超える年金を貰っている計算になるが、働く人の平均給与は、ほぼ年四〇〇万円であることは、象徴的である。このようなことが、続くはずがない。このままにしておけば、二〇六〇年には、消費税を三六%にする必要があると計算される。これはもちろん、不可能である。対策としては、二〇一〇年の年金二五三万円を、一七七万円に下げる。そうすれば、消費増税は一二・四%で済むという。そして著者はさらに、消費税の逆進性を正してはならないとすら主張する。年金をもらっている富裕者は、所得としては低所得者になるから、彼らから税金を免除するのはおかしいというのだ。まことに論理的である。ついでに貧乏人は死ねということだろう(著者の意見としては、消費税の逆進性は高くないから、貧乏人でも大丈夫だそうである。日本の世帯数の五分の一を占める年収二〇〇万円の世帯でも、逆進性は強くないのであろうか)。
 第三章の題は、「グローバリゼーションは若者のチャンス」である。日本はこれまでも海外から優れたところを取り入れ、明治維新も、第二次世界大戦の敗北も乗り越えてきた。その日本が、グローバリゼーションに反対するのはおかしいのであって、TPPも日本を活性化させるという。これも、まことにご尤もである。そして、著者のわかっているとおり、世界は「英語化」されるだろう。著者はもちろん、それもいいことだと云うだろう。ちなみに、本書に拠れば、日本の英語の教科書の厚みは、韓国の半分、中国の四分の一だそうである。著者は、それにがっかりしておられる。
 それから、著者は、日本は問題になっているほど格差社会ではないと云う。格差が大きいのは高齢者の間で、他の年齢層ではそうではない、と。これは自分には、初めて聞く意見だった。しかし一方で著者は、一九九九年以降、若者の間でも格差が広がっていることも認めている(p.102)。著者に拠れば、これは不況のせいで、景気がよくなれば解決するという。そうなのかも知れない。また、グローバリゼーションで日本の格差が拡大したという研究は、存在しないらしい。それに、著者に言わせると、格差の拡大がグローバリゼーションによるというのは、国を閉ざそうという発想につながって、「危険なこと」であるらしい(p.109)。危険だから云うのはよくないと言われてもねえ。ただ、著者の認める格差もある。それは「夫婦」という観点から見た格差で、超金持ちカップルと、貧乏カップル(という言い方は著者はしていないけれども)がともに増えていることは、事実らしい。著者は、これも肯定的に見ている。これら超金持ちカップルは多くが若いので、より長く日本経済の豊かさを支えてくれるのだそうである(p.115)。
 ただし、著者も認める事実がある。日本は、ジニ係数よりも、「相対的貧困率」が高い。相対的貧困率が高いというのは、真ん中の人の所得に比べ、所得の低い人がたくさんいるということである。その原因は、所得の再分配が日本ではうまくいっていないからだという。また、地域間の格差があることも著者は認めている。これについては、著者はあまり論じていない。総じて、著者は、格差を無理に縮める必要はないという立場である(p.128-130)。ここには、著者の立ち位置がよく出ている。そして、むしろベーシック・インカムを認めたらどうだ、ということであるらしい。これは、強く主張されているわけではない。それも可能、くらいの感じである。
 第五章では、リフレ政策が強く主張されている。このあたりは問題がない。
 第六章は、「成長戦略」に関する議論がなされる。補助金をぶちこんだ産業は、すべてダメになるというのは同感。だから、特定産業に肩入れした政策は無意味、というのは自分も大賛成である。ここで自分が痛い目を見たのは、補助金を大量に投入している米の出荷額は一・八兆円なのに対し、野菜は二・一兆円なのだというところだ。これは、保護になっていないのがよくわかる。果物でも〇・七兆円あるそうである。TPPも、そのあたりはむずかしい判断になりそうだ。関税よりも問題は円高だというのもそのとおりで、一ドル八〇円が一二〇円になれば、五〇%の関税をかけているのと同じであるというのは、説得力がある。
 第七章の教育論については、省略。
 以上、さぞかし誤読をしていると思う。刺激的な議論が満載なので、本書はお薦めだ。いい加減な議論はまったくしていないので、賛成するにしろ反対するにせよ、きっと一読の価値があると思っている。しかし、経済っていうのは、どうもむずかしいねえ。

ポリーニの新譜二枚

マウリツィオ・ポリーニの新譜が二枚出た。ようやく入手。一枚は最新録音のベートーヴェンで、もう一枚は七〇年代のライブが、今頃発売された。


 まず、最新録音のベートーヴェンソナタのCDから聴く。曲はすべて、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中では、比較的マイナーな部類に入るだろう。射程はとても大きく、そこらあたりは七十歳の老人の演奏とは思えないくらいだが、ポリーニ自身、射程の大きさをコントロールしかねている様子も散見される。聴いていると、澄明な音にもかかわらず、自分の汚い部分を掘り起こしてくるので、愉快な演奏とは云えない。しかし、無下に一刀両断に切り捨てるわけにもいかない。それなりのパースペクティブがあるからだ。けれども、歳をとってポリーニは、何をとんがっているのかと思う。ポリーニ自身にも、ここからどこへ行くのかわからないのではないか。
 曲のことはまったく書かなかったが、ソナタ第四番op.7、第九番op.14-1、第十番op.14-2、第十一番op.22である。第十一番は再録音。あともう少しで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲録音が完成する。思えば後期ソナタに始まって、長いことかかったものだ。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第4番&第9番-第11番

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第4番&第9番-第11番

 もう一枚は、厳密にはポリーニだけの新譜ではない。曲はシューベルトの「冬の旅」全曲で、歌はかのフィッシャー=ディースカウである。一九七八年八月二十三日のライブ録音で、以前から名演としてよく知られている演奏だ。これまで、海賊版があった筈だし、You Tube にアップされているものは、自分も知っている。今回は、初の正規録音の登場となる。
 正直言って自分はこの曲をほとんど聴くことはないのだが、それは、この曲がつまらないからでは勿論ない。逆に、危険すぎてなかなか聴く気になれないのである。この演奏は、冒頭から恐るべき緊張感だ。全盛期のポリーニフィッシャー=ディースカウの気迫がぶつかり合い、胸が苦しいほどである。ピアノも歌手も凄いのだが、若きポリーニの演奏の幅の広さは、喩えようがない。寂寥感も安堵感も、ピアニッシモからフォルテシモまで、完璧に表現されている。しかし、「自動ピアノ」のような、無味乾燥なものとは対極的だ。ニーチェの言った、ギリシャ的悲劇、ディオニュソス的という表現がぴったりだろう。それとアポロン的な明晰さが一体となっているのだから、何とも、信じがたく天才的である。それに、フィッシャー=ディースカウだ。ポリーニに引きずられて、限界の見えない深さにのめり込んでいく。正直言って、これは何度も聴けるような演奏では、ないのではないか。
 この二枚のディスクを聴き比べてみると、ポリーニも遠いところまで来てしまったなと思う。最新録音も悪くないと思ったが、やはり七〇年代のポリーニは、真に天才的だった。
WINTERREISE

WINTERREISE

渡辺京二による、現在最良の現状分析のひとつ

名著だと思う。著者は恐るべき実力者だ。年齢というものをまったく感じさせない、大変な内容の濃さである。本書の中で重要なところを指摘するだけで厖大な量になってしまうので、簡単な感想だけ。
 まず、現代人の生活は、ほとんどネーション=ステートの管理下にあるということ。昔は民衆はお上のことなど知らないで済ませていられたが、今は誰もが天下国家を論じるし、そうしなければならないような雰囲気になっている。しかし著者は、大衆にいちばん大切なことは、決して天下国家の問題ではなく、自分の生活圏の中にあるということを強調する。「私たちはまったくの個人として生きるのではなく、他者たちとともに生きるのですから、その他者たちとの生活上の関係こそ、人生に最も重要なことがらです。そして、そういう関係は本来、自分が仲間たちと作り出してゆくはずのものです。」(p.52)それはもちろん、天下国家を無視していけばいいということではなく、優先順位の問題なのだ。確かに、今アナーキスト的な発想が重要になっていることは、自分も強く感じる。
 また、今日世界は、ほぼ西洋化されたということ。これにはいい面も悪い面もあるが、その事実を忘れてはならないこと。例えば、アジアはアジアでやっていけばいいなんて考え方は、まったくの誤謬なのである。また、ネーション=ステートの強力さから云って、世界国家というのも当分は不可能であると。そして、世界がインターステート・システムとしてほぼ完成した以上、逆説的にナショナリズムは強くなる。例えばサッカーの国際試合など、戦争の代理の側面があるのだ。
 そして、世界の人工化。これは養老孟司氏の言う、世界の「脳化」である。脳が作り出したものが、ますます世界を覆っている。例えばアフリカのサバンナの真ん中に、突如高層ビルの林立した、近代都市ができあがっているという衝撃。「私は…、人間がこのコスモスの中での正当なしかるべき地位を喪って、コスモスの中に宇宙基地のような人工空間を作って、その中で歓楽を尽くそうという志向こそ、経済成長至上主義、社会の全面的な経済化の最も悪しき、最もおそるべき帰結だと思うのです。」(p.152)
 さて、以上で本書の重要さがどれだけ伝わったか疑問だが、例えば「現代を知る」ということがしたいなら、本書は必読書なのではないかとすら思うのだ。

「脱亜論」と「アジア主義」なる対立軸の無意味さ

途轍もない知的膂力によってなされた、驚くべき論考。日本の近現代史に関心のある者が、まず読むべき必読書であろう。本書は三十六年前に書かれたが、その重要性は現代でもまったく失われていないのではないか。しかし、自分は本書に関して何も知らなかった。文庫化されたのは僥倖である。
 さて、具体性のない賛辞ばかり連ねたが、本書を的確に紹介する能力は自分にはない。ざっと大雑把なことを云えば、従来日本の近代史を語るに、「脱亜論」と「アジア主義」との対立で語られることが多かった(今もそうなのではないか)。しかし、著者はこの対立軸は、ほとんど無意味だということを証明した。例えば福沢諭吉イデオロギーは、「アジア主義」から「脱亜論」に一八〇度変化したように見える。しかし福沢の目的は、じつは「朝鮮の保護国化」で一貫しており、「アジア主義」を主張した時は「中国が弱い」という認識で、「脱亜論」を主張した時は「中国侮るべからず」という認識であり、違いはその認識の差に過ぎないということである。福沢の中では、基本的に「朝鮮進出」は一貫しており、イデオロギーの違いに見えるものは、中国の情勢判断に因るものなのである。
 それだけではない。日清戦争日露戦争の間の期間において、陸羯南は最初「脱亜論」を唱え、次いで「アジア主義」に変ったとされる。しかし、これも主眼は「南海」「中国」にあることは一貫しており、ロシア情勢が変ったがゆえに、主張も変ったに過ぎないという点、福沢の場合と同型の構造が見られるわけだ。また、同じような構造を、日露戦争以降の山県有朋の言説分析においても、著者は見出している。つまり、「脱亜論」と「アジア主義」の対立は、本質的なことではないのである。
 これらの構造がいかにして生まれたのかという考察は、著者ははっきりとは述べていない。しかし著者のつぶやきを拾うなら、近代日本はとにかく対外的に膨張したく、実際に膨張したが、それを論理化する作業は、たとえかの福沢諭吉においてすら、成功しなかったというものである。著者はそうは述べていなけれども、それは日本の思想の失敗であり、敗北であった。もっとも、それが成功していたら、歴史はもっとひどいものになっていた可能性もあろうが。とにかく、そのあたりの混乱は、現代の歴史認識、さらには現代日本の外交にまで、影響していないとは云えないのではないか。