小林秀雄との対話

学生との対話

学生との対話

まだ読み終えていないが、全部読んでも感想はあまり変わらないと思うので、ちょっと書いておく。小林秀雄のことを語るには、少々個人的なことを書かねばならない。僕は物心ついた頃から本が好きな子供だったが、本当に本の面白さに目覚めたのは、高校生の時に小林秀雄を読んでからである。初めて買った全集も小林秀雄全集であり(後年、日本ではどんな文学者の全集より、小林秀雄全集が売れてきた事実を知った)、またこれほど繰り返して読んだ人も他にいない。恐らくそれは、自分が田舎に住んでいたことも大きかったと思う。自分の中に古い日本が残っていて、それが激しく反応したのだった。実際、小林秀雄の文章には、自分は強烈に惹きつけられてきたし、また本書を読んで、これは講演及び学生たちとの質疑応答の記録であるが、今でも惹きつけられるところがあるのを実感した。これは、自分の古臭さを示しているのだと思う。確か中沢新一さんの文章で読んだのだが、高橋源一郎さんは大学のゼミで、本など読んだことのない大学生に色々読ませて、ディスカッションをしているそうだけれども、一番人気がないのが小林秀雄だそうである。わけわかんない、なにうだうだ言ってんのこいつ、とでもいう感じだろうか。自分にはさみしい話だが、諦念を以て受け入れるしかない事実だろう。もう、古来の日本は、その感受性は、ほぼ消滅してしまったのだと思う。浅田彰さんも言っていた、小林秀雄の貧しさは、日本の貧しさだと。自分も最近は小林秀雄は読んでいなかったのだが、本書を読むと、あれほど自分を捉えていた文章の魔力が、相変らず自分の感受性をゆさぶるのに殆ど驚きを覚えた。自分は古臭いと、諦念を以て受け入れたいと思う。
 小林秀雄は『本居宣長』の強烈なイメージがあるので、晩年は古臭いものばかり読んでいたように思われているような気がするが、じつは色々貪欲に読んでいたようだ。大江健三郎のことはかなり評価していたようだし、ベルクソンの関係であろう、ドゥルーズのことは高く評価していたらしい(小林はフーコーは評価しなかったそうだ。これもわかる。フーコーの知性は鋭すぎる)。小林秀雄ドゥルーズ論など、是非読んでみたかったと思わずにはいられない。白洲正子さんの文章で読んだと思うが、南方熊楠を白洲さんに薦めたのも小林秀雄である。まあ、そんなことをいくら書いても仕方がない。日本人は変ってしまった、それだけを思う。


※追記 もうひとつ。文章こそが思想だということ。小林秀雄はそういう考え方をする人だった。だから、小林秀雄は、自分の文章に命を吹き込もうと、それこそ血の滲むような努力をした。今では、こうした考え方が馬鹿馬鹿しいと思われることはわかっている。自分でも、概念を転がすことが考えることだと、どうも勘違いしていて気づかないことがあるかも知れない。今風に染まっているのだな。

※再追記 本書読了。本書の最後に、前半の講演録と学生との対話を基にした、小林秀雄自身の文章の定稿がある。自分もかつて全集に録されたものとして読んだものだ。これに目を通してみると、意外にゴツゴツした感じになっていて驚いた。柄谷行人が、小林秀雄は文章を徹底的に直すが、元の方がいいと言っていたことを思い出すが、それはわからないでもない。講演を文章化したものは、わかりやすく、これはこれで魅力的だからだ。小林が定稿にしたものは、確かに難解になっている。しかしこれは、ギリギリの領域で書かれており、こちらも頭をフルに使わないと読み解けないところもあって、これが小林秀雄の書き方なのだと得心するところがあった。結局彼は、「作品」というものに拘りがあったのだと思う。小林秀雄の文章は外国語にも翻訳されているが、外国でもまったく反響がないそうである。確かに、小林秀雄が心血を注いだのは、日本語そのものだったのだ。恐らく、翻訳されたものは、小林秀雄が日本語に注いだ努力を、欠いているのではないかと思う。

「カリブ海域史」が必読だとは

白状しておくが、自分は最初本書について、マイナーな地域の趣味的な歴史書かと思っていた。副題を見てそう思っていたので、本書を買ったのも、趣味的な好奇心と訳者が川北稔氏だったのが大きい。しかし、中身はまったくちがっていた。そもそも、大航海時代以降のカリブ海域(西インド諸島)というのは、ヨーロッパの収奪の典型である地域で、これ以上の歴史的教訓が得られるところもないだろうという、そんな地域だったのである。実際、本書は地球上のどこに住む人も読むべきであろうという、大変重要な書物なのだ。著者はイギリス植民地下のトリニダード島出身で、オックスフォード大学で学んだ、黒人歴史家であり、トリニダード・トバゴの独立に関与して、首相にまでなった人物であるという。本書はまずカリブ海域史として、大量の資料を駆使した、手堅く精密な歴史書であることは、素人目にも明らかである。著者の経歴から、本書がヨーロッパ諸国(民)の犯罪に敏感であるのは当然のことだが、それは知的なスパイスと正当な怒りが効いているもので、倫理的に強靭であるのが印象的だ。個人的には、歴史の常識であろう、西インド諸島における砂糖黍プランテーションと、奴隷貿易の基礎的な知識が得られただけでも、大収穫だった。これを読むと、ヨーロッパ人の業の深さに慄然とさせられると共に、歴史的責任というものにも必然的に思い及ばないではいられない。もちろん、ヨーロッパ人は殆どが反省・悔恨などしないであろうが、二十世紀にアジアで同様のことをやった日本人は、そのことをどう考えるかを迫られるだろう。正直言って、この問題をどう捉えるべきかは、自分は気持ちが定まらない。個人としてアジア人に糾弾されれば、呆然と立ち尽くすしかない、情けない姿を晒すことになるような気がする。以下第二巻。


本書を読み終っても、これが驚くべき書物であるという印象は変らない。ヨーロッパは、自分たちの恥と罪が克明に記録されている本書を、そう簡単に認めることはできないだろう。実際、本書は、主にアメリカで認められたらしい。
 それにしても、厳しい書物である。本巻はカリブ海域の植民地が次々と独立していく過程を描いているが、著者はそれだからといって、その過程と結果を盲目的に賛美しているわけではない。ここでも、被支配者であった者たちの過ちですら、冷静に指摘・分析してある。甘い要素というものがないのだ。
 しかし、世界史というものは恐ろしい。自分としては、日本語の中に自閉して眠ってしまいたいという誘惑を感じずにはいないが、やはりそうはすべきではないのだろうな。今の世界を一瞥すれば直ちに出てくる疑問だが、民族問題というものは、一市民がどれほど考えるべきことのなのだろうか。幸いなのかどうか、日本ではまだそうした問題はさほど全面に出てきていないが、そういうことでいいのか。いや、遅かれ早かれ、日本も「世界並み」に問題化してくるだろう。本書は奇跡的に文庫化されたが、恐らくは無視されるだろうけれど、これからの我々の試金石になるのではないか。稀有の書と云いたい。

橋本治の驚嘆すべき短篇集

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

短篇集。本文庫には著者自身の「自作解説」があって、これがとても興味深い内容なのであるが、詳しくは取り敢えず措いておいて、そこには「『蝶のゆくえ』は、『生きる歓び』『つばめの来る日』(いずれも角川文庫)に続く、現代を舞台にした橋本治の三作目の短編小説集である」とある。自分は偶々(ではないかも知れないが)前二作も読んでいて、いずれも岩波文庫的傑作であることを疑わない。本書の短編もまたそうなのであるが、これら短編の主人公たちは、いずれもそこいらに居そうな、普通に見える人たちなのに、これまで小説に書かれなかった類であるような気がする。「気がする」というのは、自分があまり小説を読んでいないからで、少なくとも自分は、こういう小説を他で読んだことはない。しかし、本書を読むと、フツーの人(自分もそうだ)というのは、何ともさみしい存在だという感じがする。人間の根底というのは、さみしいものなのだろうか。それは「愚か」と言い換えてもいいのかも知れないが、それは、人は「愚か」でないということは殆どあり得ないからなのだ。そのような「あはれ」さこそ、これら全三作の短篇集の基調音だという気がする。云ってみれば、何か淡色の水彩画のような、不思議な雰囲気があって、小説というものを超えているような感じがある。別に、「お話」としてつまらないことはないのだけれど。
 しかし、著者が自分で書いているとおり、橋本治の小説に賞が与えられたのは、本書が初めてだというのは、殆ど信じられないような気がする。まあ、賞などというのはお遊びみたいなものだが、それでもねえ。ところで、この系列の短編、橋本治は書き続けているのだろうか。そうであれば、それらも是非読みたい。そうでしょう?

絲山秋子はいつもいつもカッコいい

エスケイプ/アブセント (新潮文庫)

エスケイプ/アブセント (新潮文庫)

主人公は左翼の活動家で、年は四〇歳あたりであり、この小説の時間設定はほぼリアルタイムであるから、左翼の活動家なんてものはアナクロもいいところである。で、主人公もそのことに気がついて、活動を止め、新しい生活に入る前に、東京からぶらり京都まで、急行銀河(これも現在は廃止)に乗り込むところから本書は始まる。旅の友は、軽い話し言葉の脳内会話だ。これが軽いのにどこかうらぶれていて、じつに味がある。京都で大事件に遭遇するはずもなく、ゲイ(主人公はゲイだ)の青年と出会ったり、イカものくさい偽神父と出会ったりして、淡々としみじみ話が進んでいく。じつを云うと自分は特権的な読み手で、本作に登場する京都は、殆どの地名に喚起力があって、鮮明に映像と位置関係が浮かんでくる。映画を観ているようなもので、だから、自分は本書をとてもおもしろく、かつしみじみと読んでしまったのだが、それが万人に当てはまる体験なのか、どうも自信がない。
 本書の主題は「フェイク」だとも云えよう。何もかもがフェイク、しかし、主人公でなくとも、フェイクでない奴なんて、一握りだろう。高橋源一郎さんの文庫解説(いつもながら素晴らしい)では「コスプレ」と述べているが、そう云ってもいい。自分は、ファイクを身に引き受けない限り、何にもなれないと思っているのだが。

才人オスカー・ワイルドとヴィクトリア時代の性道徳

いやあ、これは面白かった。傑作評伝というやつですね。オスカー・ワイルドの生涯を描くということは、必然的に、ヴィクトリア時代における性道徳を相手にすることになる。その興味深い背景とともに、ワイルドという才気煥発な人物が縦横に活躍するのだから、読んでいて映画でも観ているような興奮を覚えずにはいられなかった。また、著者の筆の力もすばらしい。同性愛に溺れつつ、無垢さを失わないワイルド、すぐに人間に感動してしまうくせに、悪魔の様な恥知らずの裏切り(それすらも悪意は限りなく少ない)を繰り返す、才気と矛盾の塊であるワイルド。それが見事に描かれている。
 自分はワイルドについてはよく知らなかったし、著書も『サロメ』や短篇集を読んだくらいなので、本書の記述はじつに新鮮だった。まさかワイルドが、ドレフュス事件にまで関係しているとは。まあそれすら刺身のツマのようなもので、特に同性愛で監獄に入れられ、落魄し、それこそ地獄の苦しみを味わうところなど、鬼気迫っている。しかし『獄中記』も読んだはずだが、そこで綴られているであろう「深き淵より」(これが原題である)をすっかり忘れているのは、我ながらどういうものかと思う。これは再読してみたい。それに『ドリアン・グレイの肖像』すら、まだ読んでいないのだ。これはいけない。『レディング監獄のバラッド』も入手して、共に読んでみたいと思う。それにしても、ワイルド本人の言うとおり、彼の作品ではなく、彼の人生こそが、彼のもっとも心血を注いだものであるとは、まったく本書の示すところだ。あたかも、小説であるかのごとくに。もちろん本書は実証の書であるが、詩も充分にあると云っても、よもや著者には怒られないと思う。

綿矢りさは正統派の小説家です

かわいそうだね? (文春文庫)

かわいそうだね? (文春文庫)

表題作が大傑作で、興奮した。普通の恋愛小説というか、三角関係が崩壊していく普通の小説で、書き方もオーソドックスなのに傑作とは、これは古典的名作ということではないか! 将来は、岩波文庫しかないね。それにしても、二十八歳OLについての恋愛小説が、どうしてこんなにおもしろいのだろう。あーあるあるという、リアル感だろうか。やはりそこかな。つい、主人公に感情移入してしまうのだ。しかし、未婚のおっさんを唸らせるのだから、大したものですぜ。ちょっと若い頃を思い出しましたよ。まあ、突っ込もうと思えば突っ込めるのであって、例えば二十八歳の独身女性といえば、まず結婚がどうしても頭にあるもので(とりあえず「キープしておく」というやつ)、本作の主人公はそれがまったくないのは不自然なのだが、そこは小説なので、実際そこをオミットしたせいで、展開がおもしろくなっている。最後は爽快。さてこれは男性側から見た感想だが、これは是非女性の意見を聞きたい。検索するのが楽しみである。
 それにしても、著者には才能がある。別ブログの過去の記事で、著者は取り敢えず、等身大の小説を書いた方がいいのではないかなどという感想を記したことがあるが、等身大の小説でここまでのものを書いてしまうとはねえ。大江健三郎賞も当然である。(しかし、大江さんはすごいな。若い才能を的確に捉えている。未だに第一線の小説家である証拠だ。)この後が楽しみだ。
 併録された「亜美ちゃんは美人」も、こちらは気楽に読める小説だが、なかなかいい。まあ著者なら、これくらいのものは簡単に書けるのではないか。それくらい才能があると思う。表題作もこれも、エンターテイメントとしても充分薦められるし、それだけには留まらない深さもある。綿矢りさは、正統派の小説家です。

日本経済は若者を見殺しにするのか?

若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)

若者を見殺しにする日本経済 (ちくま新書)

扇情的なタイトルだが、著者の怒りが籠められていると云っていい。ロジックの書である。自分の愚かな意見を色々粉砕してくれたわけで、それはロジックによるものであるから、受け入れざるを得ない。個人的に知らなかったこと、考えを改めさせられたところは幾つかあって、二三列挙してみよう。
 まず、日本の経済の実力について、GDPはそれを正確に見るための指標としては適当でないという。むしろ、購買力平価GDPWikipedia)を使うべきであるらしい。国民一人あたりの購買力平価GDPを計算すると、やはりアメリカが世界をリードしており、その後に先進国各国が続くが、シンガポール、香港などはアメリカを抜き、また台湾は日本を抜いていて、韓国が日本を抜くのも時間の問題であるらしい。ある意味納得できないこともないが、ここからわかるのは、日本の経済成長の鈍化は、少々早すぎたということだそうである。じつは日本の停滞は七〇年代からであるそうで、それは「構造」的な日本経済の非効率性が原因だと著者は云う。また、九〇年代における金融政策の大失策。これらが、若者の失業率を押し上げている。
 また、第二章の題でもあるが、「年金は削るしかない」。今の高齢者向けの社会保障給付費は高すぎるので、これを維持することは不可能である。今は、高齢者夫婦で五〇〇万円(=二五三万円×二)を超える年金を貰っている計算になるが、働く人の平均給与は、ほぼ年四〇〇万円であることは、象徴的である。このようなことが、続くはずがない。このままにしておけば、二〇六〇年には、消費税を三六%にする必要があると計算される。これはもちろん、不可能である。対策としては、二〇一〇年の年金二五三万円を、一七七万円に下げる。そうすれば、消費増税は一二・四%で済むという。そして著者はさらに、消費税の逆進性を正してはならないとすら主張する。年金をもらっている富裕者は、所得としては低所得者になるから、彼らから税金を免除するのはおかしいというのだ。まことに論理的である。ついでに貧乏人は死ねということだろう(著者の意見としては、消費税の逆進性は高くないから、貧乏人でも大丈夫だそうである。日本の世帯数の五分の一を占める年収二〇〇万円の世帯でも、逆進性は強くないのであろうか)。
 第三章の題は、「グローバリゼーションは若者のチャンス」である。日本はこれまでも海外から優れたところを取り入れ、明治維新も、第二次世界大戦の敗北も乗り越えてきた。その日本が、グローバリゼーションに反対するのはおかしいのであって、TPPも日本を活性化させるという。これも、まことにご尤もである。そして、著者のわかっているとおり、世界は「英語化」されるだろう。著者はもちろん、それもいいことだと云うだろう。ちなみに、本書に拠れば、日本の英語の教科書の厚みは、韓国の半分、中国の四分の一だそうである。著者は、それにがっかりしておられる。
 それから、著者は、日本は問題になっているほど格差社会ではないと云う。格差が大きいのは高齢者の間で、他の年齢層ではそうではない、と。これは自分には、初めて聞く意見だった。しかし一方で著者は、一九九九年以降、若者の間でも格差が広がっていることも認めている(p.102)。著者に拠れば、これは不況のせいで、景気がよくなれば解決するという。そうなのかも知れない。また、グローバリゼーションで日本の格差が拡大したという研究は、存在しないらしい。それに、著者に言わせると、格差の拡大がグローバリゼーションによるというのは、国を閉ざそうという発想につながって、「危険なこと」であるらしい(p.109)。危険だから云うのはよくないと言われてもねえ。ただ、著者の認める格差もある。それは「夫婦」という観点から見た格差で、超金持ちカップルと、貧乏カップル(という言い方は著者はしていないけれども)がともに増えていることは、事実らしい。著者は、これも肯定的に見ている。これら超金持ちカップルは多くが若いので、より長く日本経済の豊かさを支えてくれるのだそうである(p.115)。
 ただし、著者も認める事実がある。日本は、ジニ係数よりも、「相対的貧困率」が高い。相対的貧困率が高いというのは、真ん中の人の所得に比べ、所得の低い人がたくさんいるということである。その原因は、所得の再分配が日本ではうまくいっていないからだという。また、地域間の格差があることも著者は認めている。これについては、著者はあまり論じていない。総じて、著者は、格差を無理に縮める必要はないという立場である(p.128-130)。ここには、著者の立ち位置がよく出ている。そして、むしろベーシック・インカムを認めたらどうだ、ということであるらしい。これは、強く主張されているわけではない。それも可能、くらいの感じである。
 第五章では、リフレ政策が強く主張されている。このあたりは問題がない。
 第六章は、「成長戦略」に関する議論がなされる。補助金をぶちこんだ産業は、すべてダメになるというのは同感。だから、特定産業に肩入れした政策は無意味、というのは自分も大賛成である。ここで自分が痛い目を見たのは、補助金を大量に投入している米の出荷額は一・八兆円なのに対し、野菜は二・一兆円なのだというところだ。これは、保護になっていないのがよくわかる。果物でも〇・七兆円あるそうである。TPPも、そのあたりはむずかしい判断になりそうだ。関税よりも問題は円高だというのもそのとおりで、一ドル八〇円が一二〇円になれば、五〇%の関税をかけているのと同じであるというのは、説得力がある。
 第七章の教育論については、省略。
 以上、さぞかし誤読をしていると思う。刺激的な議論が満載なので、本書はお薦めだ。いい加減な議論はまったくしていないので、賛成するにしろ反対するにせよ、きっと一読の価値があると思っている。しかし、経済っていうのは、どうもむずかしいねえ。