維新と会津人

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

副題「会津人柴五郎の遺書」。柴五郎は幕末の会津の武士の家に生を受け、幼くして戊辰戦争を経験した。その時、祖母や母、果ては幼い妹までも自害して失い、父や兄たちとも散り散りになっている。維新後は、斗南藩に移住させられた旧会津藩の武士たちと共に、極貧の辛酸を嘗める生活で(というのは誇張でも何でもなく、この形容すら生ぬるいほどだ)、恥辱を雪ぐためだけに耐え続けた。しかし、あるきっかけで極貧の生活からは免れ、陸軍幼年学校に入ることで、人生が変っていく。「遺書」は最後、西南戦争の時点で終わる。とにかく、驚くべき記録である。記述は文語体であり、密度は大変に高く、こちらの感情をとても揺さぶられた。感想は陳腐なものになるが、戦争の悲惨さと、維新の凄惨さと、武士の誇りというものに打たれざるを得ない。何とも言いようのない気分にさせられる。
 編者の父親である石光真清と柴五郎は親しい間柄であったらしく、編者と柴五郎も親しかったようで、その関係でこの「遺書」に接する機会があったらしい。柴五郎は最終的に陸軍大将にまで登りつめるらしいが、飾らない謙虚な人柄であったという。太平洋戦争については、柴五郎は始めからこの戦は負けだと静かに言い続けていたとのこと。一読して、かつてはこうした日本人もいたのだということに、これも何とも言えないような気にさせられる。時代は変ったと、そうして片付けてしまって、いいものなのであろうか。自分などからして、到底及ぶものではない。

小林秀雄との対話

学生との対話

学生との対話

まだ読み終えていないが、全部読んでも感想はあまり変わらないと思うので、ちょっと書いておく。小林秀雄のことを語るには、少々個人的なことを書かねばならない。僕は物心ついた頃から本が好きな子供だったが、本当に本の面白さに目覚めたのは、高校生の時に小林秀雄を読んでからである。初めて買った全集も小林秀雄全集であり(後年、日本ではどんな文学者の全集より、小林秀雄全集が売れてきた事実を知った)、またこれほど繰り返して読んだ人も他にいない。恐らくそれは、自分が田舎に住んでいたことも大きかったと思う。自分の中に古い日本が残っていて、それが激しく反応したのだった。実際、小林秀雄の文章には、自分は強烈に惹きつけられてきたし、また本書を読んで、これは講演及び学生たちとの質疑応答の記録であるが、今でも惹きつけられるところがあるのを実感した。これは、自分の古臭さを示しているのだと思う。確か中沢新一さんの文章で読んだのだが、高橋源一郎さんは大学のゼミで、本など読んだことのない大学生に色々読ませて、ディスカッションをしているそうだけれども、一番人気がないのが小林秀雄だそうである。わけわかんない、なにうだうだ言ってんのこいつ、とでもいう感じだろうか。自分にはさみしい話だが、諦念を以て受け入れるしかない事実だろう。もう、古来の日本は、その感受性は、ほぼ消滅してしまったのだと思う。浅田彰さんも言っていた、小林秀雄の貧しさは、日本の貧しさだと。自分も最近は小林秀雄は読んでいなかったのだが、本書を読むと、あれほど自分を捉えていた文章の魔力が、相変らず自分の感受性をゆさぶるのに殆ど驚きを覚えた。自分は古臭いと、諦念を以て受け入れたいと思う。
 小林秀雄は『本居宣長』の強烈なイメージがあるので、晩年は古臭いものばかり読んでいたように思われているような気がするが、じつは色々貪欲に読んでいたようだ。大江健三郎のことはかなり評価していたようだし、ベルクソンの関係であろう、ドゥルーズのことは高く評価していたらしい(小林はフーコーは評価しなかったそうだ。これもわかる。フーコーの知性は鋭すぎる)。小林秀雄ドゥルーズ論など、是非読んでみたかったと思わずにはいられない。白洲正子さんの文章で読んだと思うが、南方熊楠を白洲さんに薦めたのも小林秀雄である。まあ、そんなことをいくら書いても仕方がない。日本人は変ってしまった、それだけを思う。


※追記 もうひとつ。文章こそが思想だということ。小林秀雄はそういう考え方をする人だった。だから、小林秀雄は、自分の文章に命を吹き込もうと、それこそ血の滲むような努力をした。今では、こうした考え方が馬鹿馬鹿しいと思われることはわかっている。自分でも、概念を転がすことが考えることだと、どうも勘違いしていて気づかないことがあるかも知れない。今風に染まっているのだな。

※再追記 本書読了。本書の最後に、前半の講演録と学生との対話を基にした、小林秀雄自身の文章の定稿がある。自分もかつて全集に録されたものとして読んだものだ。これに目を通してみると、意外にゴツゴツした感じになっていて驚いた。柄谷行人が、小林秀雄は文章を徹底的に直すが、元の方がいいと言っていたことを思い出すが、それはわからないでもない。講演を文章化したものは、わかりやすく、これはこれで魅力的だからだ。小林が定稿にしたものは、確かに難解になっている。しかしこれは、ギリギリの領域で書かれており、こちらも頭をフルに使わないと読み解けないところもあって、これが小林秀雄の書き方なのだと得心するところがあった。結局彼は、「作品」というものに拘りがあったのだと思う。小林秀雄の文章は外国語にも翻訳されているが、外国でもまったく反響がないそうである。確かに、小林秀雄が心血を注いだのは、日本語そのものだったのだ。恐らく、翻訳されたものは、小林秀雄が日本語に注いだ努力を、欠いているのではないかと思う。

西欧型知識人・アーレント

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

本書は曖昧に書かれているのではないが、自分の力不足で文章を辿っていくことに難渋した。非常に強靭な文体で、著者の頭の強さを感じつつの読書だった。さて、本書の副題は「悪の陳腐さについての報告」であり、対象はナチのユダヤ人虐殺に関わったアイヒマンの、エルサレムにおける裁判である。本書でアーレントが、アイヒマンは自分の出世のことばかりを考えていた、陳腐な官僚であり、立ち向かうべき「巨大な悪」でもなんでもなかったと結論づけていることは有名であり、読んでみてそれはその通りの内容であった。その点に関し、意外なことはまったくなかったので、自分が驚いたのはそこではない。アーレントは、実際にナチの迫害によりドイツを逃れたユダヤ人であるが、本書によって(ショーレムを含む)ユダヤ人の友人の殆どを失っている。読んでみてわかったが、それはアイヒマンを「陳腐な悪」であると結論づけたせいではない。本書で驚かされたのは、ナチのユダヤ人に対する「最終的解決」に際し、多くのユダヤ人がそれに協力しており、ユダヤ人を狩る「ユダヤ人警察」まで存在したことを、アーレントははっきりと書いていることだ。実際、多くのユダヤ系ドイツ人は抵抗らしい抵抗をせず、それがもう少しでもあれば、現実は変っていた可能性がある。しかし、アーレントは、どのような気持ちでこれを書いたのか。確かにそれらは真実だったが、真実は往々にして人を怒らせる。アーレントははっきりとナチに対して抵抗的・戦闘的であったがゆえに不思議だが、彼女の気持ちの複雑さは他人の安易な理解を拒むかのようだ。いったいどうして彼女は、本書を書いたのだろう。
 訳者あとがきで、彼女の師だったヤスパースの言葉に、彼女は(職業的)文筆家ではないとあるが、確かにそうだ。彼女は本を書き終えると、いつもこれは自分の最後の本だというのだが、しばらくするとまた本が書かれる。何か、已むに已まれない衝動があるのだろう。もちろん、能力は非常に高いのだが、それはひとつの要因に過ぎない。結局自分の考えの落ち着くところは、彼女はやはり西欧の知識人であり、その独特の形態なのだということだ。殆どが生産物の輸入者である(これは馬鹿にするわけではない。日本は知的にはある意味いまだに後進国なのだから)、日本のいわゆる「知識人」とは、だいぶちがった存在である。その生態が、個人的にはどうも気になって仕方がない。

「カリブ海域史」が必読だとは

白状しておくが、自分は最初本書について、マイナーな地域の趣味的な歴史書かと思っていた。副題を見てそう思っていたので、本書を買ったのも、趣味的な好奇心と訳者が川北稔氏だったのが大きい。しかし、中身はまったくちがっていた。そもそも、大航海時代以降のカリブ海域(西インド諸島)というのは、ヨーロッパの収奪の典型である地域で、これ以上の歴史的教訓が得られるところもないだろうという、そんな地域だったのである。実際、本書は地球上のどこに住む人も読むべきであろうという、大変重要な書物なのだ。著者はイギリス植民地下のトリニダード島出身で、オックスフォード大学で学んだ、黒人歴史家であり、トリニダード・トバゴの独立に関与して、首相にまでなった人物であるという。本書はまずカリブ海域史として、大量の資料を駆使した、手堅く精密な歴史書であることは、素人目にも明らかである。著者の経歴から、本書がヨーロッパ諸国(民)の犯罪に敏感であるのは当然のことだが、それは知的なスパイスと正当な怒りが効いているもので、倫理的に強靭であるのが印象的だ。個人的には、歴史の常識であろう、西インド諸島における砂糖黍プランテーションと、奴隷貿易の基礎的な知識が得られただけでも、大収穫だった。これを読むと、ヨーロッパ人の業の深さに慄然とさせられると共に、歴史的責任というものにも必然的に思い及ばないではいられない。もちろん、ヨーロッパ人は殆どが反省・悔恨などしないであろうが、二十世紀にアジアで同様のことをやった日本人は、そのことをどう考えるかを迫られるだろう。正直言って、この問題をどう捉えるべきかは、自分は気持ちが定まらない。個人としてアジア人に糾弾されれば、呆然と立ち尽くすしかない、情けない姿を晒すことになるような気がする。以下第二巻。


本書を読み終っても、これが驚くべき書物であるという印象は変らない。ヨーロッパは、自分たちの恥と罪が克明に記録されている本書を、そう簡単に認めることはできないだろう。実際、本書は、主にアメリカで認められたらしい。
 それにしても、厳しい書物である。本巻はカリブ海域の植民地が次々と独立していく過程を描いているが、著者はそれだからといって、その過程と結果を盲目的に賛美しているわけではない。ここでも、被支配者であった者たちの過ちですら、冷静に指摘・分析してある。甘い要素というものがないのだ。
 しかし、世界史というものは恐ろしい。自分としては、日本語の中に自閉して眠ってしまいたいという誘惑を感じずにはいないが、やはりそうはすべきではないのだろうな。今の世界を一瞥すれば直ちに出てくる疑問だが、民族問題というものは、一市民がどれほど考えるべきことのなのだろうか。幸いなのかどうか、日本ではまだそうした問題はさほど全面に出てきていないが、そういうことでいいのか。いや、遅かれ早かれ、日本も「世界並み」に問題化してくるだろう。本書は奇跡的に文庫化されたが、恐らくは無視されるだろうけれど、これからの我々の試金石になるのではないか。稀有の書と云いたい。

橋本治の驚嘆すべき短篇集

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

短篇集。本文庫には著者自身の「自作解説」があって、これがとても興味深い内容なのであるが、詳しくは取り敢えず措いておいて、そこには「『蝶のゆくえ』は、『生きる歓び』『つばめの来る日』(いずれも角川文庫)に続く、現代を舞台にした橋本治の三作目の短編小説集である」とある。自分は偶々(ではないかも知れないが)前二作も読んでいて、いずれも岩波文庫的傑作であることを疑わない。本書の短編もまたそうなのであるが、これら短編の主人公たちは、いずれもそこいらに居そうな、普通に見える人たちなのに、これまで小説に書かれなかった類であるような気がする。「気がする」というのは、自分があまり小説を読んでいないからで、少なくとも自分は、こういう小説を他で読んだことはない。しかし、本書を読むと、フツーの人(自分もそうだ)というのは、何ともさみしい存在だという感じがする。人間の根底というのは、さみしいものなのだろうか。それは「愚か」と言い換えてもいいのかも知れないが、それは、人は「愚か」でないということは殆どあり得ないからなのだ。そのような「あはれ」さこそ、これら全三作の短篇集の基調音だという気がする。云ってみれば、何か淡色の水彩画のような、不思議な雰囲気があって、小説というものを超えているような感じがある。別に、「お話」としてつまらないことはないのだけれど。
 しかし、著者が自分で書いているとおり、橋本治の小説に賞が与えられたのは、本書が初めてだというのは、殆ど信じられないような気がする。まあ、賞などというのはお遊びみたいなものだが、それでもねえ。ところで、この系列の短編、橋本治は書き続けているのだろうか。そうであれば、それらも是非読みたい。そうでしょう?

農業とマーケットの論理

農業が日本を救う

農業が日本を救う

著者の顔は「報道ステーション」で何度か見かけたことがある。氏のレポートはいつもポジティブで、「日本も捨てたものではないのだ」と思わせ、元気が出てくるようなものが多く、以前から好感を持っていた。本書は、偶々図書館の農業の棚を見ていて見つけたものである。ちなみに、地元の図書館の農業の本は古臭く、読んでみたい気を起こさせないような類が多い。
 さて、何かと問題視される現代日本の農業であるが、本書を読んでもわかるように、優れた人材は居る。その点はあまり心配はないと思う。目からウロコだったのは、農業はとてもむずかしく、一時期よく云われた「大企業の参入」というのは、よほどの覚悟がない限り無理だということだ。例えば、農業に参入してまもなく撤退した企業に、オムロンユニクロ(の親会社)のような、優良で柔軟な企業があることは、農業の「工業化」が洵にむずかしいことを物語っている。病気や虫害によって、農業ハウス丸ごと全滅するなどというのはめずらしいことではなく、リスクがあまりにも大きいのだ。
 また、著者がつい忘れてしまうことに、よく非難されるのは、政治家(農林族)や農協、補助金で肥え太る兼業農家だが、これらに対しては何かの方策は殆ど不可能なのである。「腐り切っている」存在が長く存在するというのは、そのような存在に何らかの「合理性」があるからだ。ここを攻めてもまず無理である。それに悪いことに(?)、物のよくわかった、日本の農業の未来をきちんと考えている官僚や政治家も、じつは少なくない。仮に政治家や官僚の大多数が「腐っている」としても、簡単には非難できないのだ。またそれに、意欲的な人材を活用するために、農地の集約が必要だというのもよく云われることであるが、そのような法律もちゃんと存在するのである。著者によると、官僚もまったく怠けているのではなく、云われるようなことはやっているのであって、事実は、そのために採られた措置があまりにも複雑に絡み合っていて、身動きがとれないことらしい。
 著者が最終的に到達したのは、農地はいつかそこに道路が通ったり、施設が出来たりして、「宝くじに当たる」可能性が捨てきれないため、農家が手放さないという事実である。それだけではなく、耕作しなくても補助金が出ることがあるし、ずっと所有していても税金が安い。これは、自分の住んでいるあたりを見ても、とてもよくわかる。まさしくそうであり、実際に自分の町内でも、そうした「宝くじ」が当って、お金持ちになった家は一軒や二軒ではない。そうしたことをやめさせるのは、今のままでは無理である。自分の印象では、なかなか農業で日本を救うのは、むずかしいような気がする。希望は、若い人たちの肩に掛っているのだろう。
 本書は、全体としてとても誠実であり、よく調べてある。そして、おもしろいしポジティブだ。読んでも損にはならない。


※追記 いま、意欲的に農業に取り組む人たちが活躍できるような、そういう農業が求められているところが一つあると思う。本書にも頻出するが、生産者の方を向く農業ではなく、消費者の方を向いた農業であるべきだ、ということ。これは自分は、さほど実現に問題がないと思う。それは、マーケットの方を向いた農業ということであり、現代は世界的に、すべてがマーケットの論理で動こうとしているからだ。日本でいま苦労している人たちも、遠からずして「先駆者」として敬意を払われる存在になることだろう。一方でまた、農業の市場原理化をどう考えるかという問題がある。農業は生き物(植物は生き物である)が相手であり、自然を完全にコントロールすることは、不可能だし、していいことでもない。もしマーケットを全面的に信頼するなら、消費者のためになる限り、農産物を日本で作る究極的な必然性はなく、必要なだけ(可能性とすればすべてでも)輸入すればいいわけである。著者は、そのあたりをまだ考え尽くしていないように見受けられる。もちろん、自分もまだ答えを持っているわけではない。

絲山秋子はいつもいつもカッコいい

エスケイプ/アブセント (新潮文庫)

エスケイプ/アブセント (新潮文庫)

主人公は左翼の活動家で、年は四〇歳あたりであり、この小説の時間設定はほぼリアルタイムであるから、左翼の活動家なんてものはアナクロもいいところである。で、主人公もそのことに気がついて、活動を止め、新しい生活に入る前に、東京からぶらり京都まで、急行銀河(これも現在は廃止)に乗り込むところから本書は始まる。旅の友は、軽い話し言葉の脳内会話だ。これが軽いのにどこかうらぶれていて、じつに味がある。京都で大事件に遭遇するはずもなく、ゲイ(主人公はゲイだ)の青年と出会ったり、イカものくさい偽神父と出会ったりして、淡々としみじみ話が進んでいく。じつを云うと自分は特権的な読み手で、本作に登場する京都は、殆どの地名に喚起力があって、鮮明に映像と位置関係が浮かんでくる。映画を観ているようなもので、だから、自分は本書をとてもおもしろく、かつしみじみと読んでしまったのだが、それが万人に当てはまる体験なのか、どうも自信がない。
 本書の主題は「フェイク」だとも云えよう。何もかもがフェイク、しかし、主人公でなくとも、フェイクでない奴なんて、一握りだろう。高橋源一郎さんの文庫解説(いつもながら素晴らしい)では「コスプレ」と述べているが、そう云ってもいい。自分は、ファイクを身に引き受けない限り、何にもなれないと思っているのだが。