耽美派ブーレーズの究極美的シマノフスキ

シマノフスキ:交響曲第3番/ヴァイオリン協奏曲第1番

シマノフスキ:交響曲第3番/ヴァイオリン協奏曲第1番

初めて聴いた曲で鳥肌が立つような思いをしたのは、久しぶりのことだ。ヴァイオリン協奏曲(第一番)op.35の冒頭から、そうだった。なんという美しさであろう。ロマン派の崩壊点である。後期マーラーから初期シェーンベルクを、どうしても思わずにはいられなかった。シェーンベルクの Verklärte Nacht op.4 (浄夜)という曲(自分は大好きだ)があるが、それがしきりと思われた。交響曲第三番「夜の歌」op.27の方は、マーラー的だ。というのはあまり意味がないが、語彙がないので仕方なくそういうのである。しかし如何せん、輸入盤を買ったので、歌詞の日本語訳がないのがいけない。もちろん聴いていて意味などわからないので、英対訳を見つつ聴くのは面倒だから、いま対訳を見ている始末である。(ルーミーの詩だそうである。)
 この美しさの原因のいくらかは、ブーレーズの指揮によるだろう。最近思うのだが、ブーレーズって耽美ではないか? ウィーン・フィルの、特に弦も凄い。聴いていてどこのオーケストラだろうと気になったが、VPOも今ではこんな曲もやすやすとやってしまうのだな。
 で、シマノフスキだが、無知でよく知らないのである。ウィキペディアで調べてみると、なかなか興味深い作曲家だ。マーラーやシェーベルクの影響はなかったのだろうか。とすると、同時代的なシンクロニシティかもしれない。個人的には他に弦楽四重奏曲のCDを持っているのだが、どういう曲だったか覚えがない。これはもう一度聴いてみよう。

リヒテルのリサイタル盤

Beethoven: Andante / Chopin: Op.34,31,60 / Debussy

Beethoven: Andante / Chopin: Op.34,31,60 / Debussy

リヒテルのリサイタル盤を聴く。1977年8月26日のザルツブルグ音楽祭におけるライヴ録音である。
 冒頭のベートーヴェンから、美しい音楽が流れ出す。アンダンテ・ファヴォリは、凡庸な主題を巧みに展開した、良くも悪くもベートーヴェンらしい曲で、正直言ってそれほどのものとも思われないが、こうチャーミングに弾かれると、悪くない。
 次のショパンも、ワルツも舟歌もいい。特に、ショパンのワルツの中で最も沈鬱な、op.34-2の表現力はどうであろう。張り詰めたような弱音で、ほとんど止まりそうになるくらいスローに弾かれており、ショパンにここまで深い内容を与えるのは、普通のピアニストの遠く成し得るところでない。
 このディスクで一番聴きたかったのは、後半のドビュッシーだ。個人的にベルガマスク組曲が大好きなので、期待していた。全体的な感想から云うと、遅めのテンポでじっくり微分的に聴かせる、ユニークな演奏になっている。それが一番目立つのが「前奏曲」で、普通は速めのテンポで華麗に弾こうという演奏が多いと思うが、これは、いわば「印象派」的な部分を強調した仕上がりになっている。「月の光」など、限度まで弱く遅く弾いていて、すごい緊張感だ。「パスピエ」が普通っぽく(?)始まると、ちょっとホッとするくらい。リヒテルとしてはあり余る技巧を強調せず、楽々とやっているのが印象的だ。じつに美しいドビュッシーである。
 最後の『版画』も、なんとも(ミケランジェリにも負けず)色彩感の豊かな演奏だ。この曲はエキゾチシズムが特徴だと思うが、これも見事。リヒテルが他にどれくらいドビュッシーを録音しているか知らないが、メインのレパートリーとも思えないのに、魅力的だとしか云いようがない。
 なんとも、生でこれを聴いた人たちは、大満足だっただろう。それにしても、最盛期のリヒテルのピアノの音の美しさは、他に替えがたいものだ(録音もよい)。技術や構築性も言わずもがな。これなどを聴くと、リヒテルは二十世紀最高のピアニストだったと改めて思われるし、これを超えるような存在も、恐らく将来に亙って、現れることがないだろうとも思う。

ブーレーズ指揮のマーラー『子供の不思議な角笛』と第十番アダージョ

Mahler: Des Knaben Wunderhorn / Adagio From Symphony No 10

Mahler: Des Knaben Wunderhorn / Adagio From Symphony No 10

マーラー最初期の歌曲集『子供の不思議な角笛』と、絶筆となった交響曲第十番の第一楽章という、最初と最後を繋げた興味深いアルバムを、ブーレーズが録音した。恐らくこれで、ブーレーズマーラー・チクルスは完成である。
 まず、『子供の不思議な角笛』を、英対訳を片手にじっくり聴いてみた。上にも書いたように、この曲はマーラーの最初期のものであるが、この頃からマーラーは、既にオーケストレーションが至極立体的であり、メロディも含めてなんとも魅力的である。まさしく、交響曲第四番あたりまでの初期マーラーの特徴がよく出ていると云えよう。実際、「魚に説教するパドゥアの聖アントニウス」が、第二番の第三楽章に忠実に引用されていることからも、このことはわかる。また、歌曲集と同名の題をもつ詩集からのテクストも、興味をそそられる。意味が通じるようで通じないというか、不思議な魅力を湛えたもので、マーラーがとても愛したものだ。ナンセンスさに、どこか死の影があるようにも感じる。ブーレーズの指揮は繊細でありつつ色彩感が豊かなもので、コントラストの付け方も申し分ない。歌曲集の楽しみが充分に堪能できるもので、別のディスクに所収の「リュッケルト歌曲集」がさらに聴きたくなったほど。
 ここから第十番のアダージョへ飛ぶと、これまた違った世界だ。明らかに第九番に通底する要素がある一方で、聴いたこともない新たな展開もある。耽美的なとても美しい弦楽奏などは前者に通じ、わかりやすいとも云えようが、後者に対応するのは、異様ともいえる奇妙さと美が混淆したもので、難解にも聞える。思うに、この難解な美が曲者で、第二楽章以降はスケッチされただけなのが惜しく、補筆の筆を加える者が絶えないのも、わかるのである。ブーレーズの音楽づくりはこちらもすばらしく、明晰さと耽美が両立した名演だ。ブーレーズといえば誰しもクールな音楽づくりを思い浮かべるだろうが、このディスクなどを聴いてもわかるように、決して無味乾燥なものではない。確かに時には線が細いように感じることはあるが、ここではそれもない。すべてをひっくるめて、いい演奏だと思う。

青柳いづみこの見事な音楽評論

音楽と文学の対位法 (中公文庫)

音楽と文学の対位法 (中公文庫)

洵におもしろい。優れた音楽家としての楽曲分析も(自分にはちょっと詳しすぎるが)興味深いし、また文学書を実によく読んでいる。「主要引用文献」を見ていただきたい。脱帽である。恐らく著者の音楽批評は、吉田秀和以来、最高のものだろう。そこで、吉田秀和を思いながら読むと、吉田のように、読んでいて猛烈に音楽が聴きたくなってくるのとはちょっと違って、青柳を読んでいると、個人的には、音楽の具体的な部分が頭の中で鳴るという感じである。特に、シューマンについて書かれたものを読んでいるときに、頭の中で「クライスレリアーナ」の楽句があざやかに響くのを感じた。まあそれはともかく、日本人のクラシック音楽の受容の成熟を示す、素晴しい仕事である。これからも注目の人だ。

吉田秀和さんに教えられたシベリウス

チャイコフスキー&シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー&シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

本日付の朝日新聞朝刊(名古屋本社版)に、吉田秀和さんの「音楽展望」が久しぶりに載っていた。読むと猛烈に音楽が聴きたくなってくる、批評の魔術は健在で、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴かざるを得なくなった。チョン・キョンファのヴァイオリンと、プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏で、聴くのは久方ぶりだが、まるで初めて聴くかのように感動する。以前は、何もわかっていなかったらしい。なんという悲しい、凄い曲だろう。吉田さんも云っているとおり、作曲者の人生が凝縮された曲であり、フィンランドという国(の歴史)を考えずには聴けまい。チョンのヴァイオリンが、これまたである。悲痛な叫びのようなものまで、感じずにはいられない演奏だ。

エデルマンと技術的難曲

リスト:ピアノ・ソナタロ短調、シューベルト:幻想曲「さすらい人幻想曲」

リスト:ピアノ・ソナタロ短調、シューベルト:幻想曲「さすらい人幻想曲」

進境著しいピアニスト、セルゲイ・エデルマンの新譜が出た。今回はリストのロ短調ソナタと、シューベルトの「さすらい人」幻想曲で、ともにヴィルトゥオジティを必要とすることで知られている名曲であり、双方ともポリーニの超絶的な演奏があるから、どうしても引き比べてしまうだろう。
 まず、個人的に好きな、「さすらい人」幻想曲から聴いてみた。実に美しい演奏で、技巧も快感を覚えるほど迫力がある。構築性もがっちりしたものだ。何の不満もなし。これは、今までのエデルマンの録音の中でも、最高だと云えるものかも知れない。リヒテルポリーニの演奏と比べても、決して引けをとらない名演だと思う。
 リストも美しい。前にも書いたが、エデルマンのピアノの音はとても魅力的だ。弱音から強音まで粒立ち、輝いている。リストにはあまりにきれいすぎるくらいで、むしろ、もう少しきたない音の方がいい部分もあるかもしれない。そうすると、もっとデモーニッシュな演奏になると思うのだが。しかし、実に音楽的な演奏であることは間違いない。技術的にもまったく問題なく、迫力がある。
 リストにわずかに不満があるとすれば、経過的な部分が手馴れたように聞こえてしまうところがあるのが、残念といえば残念だ。今までも特に曲の始めのあたりにそう感じるときがあって、このピアニストには、興が乗ってくるとどこまでも素晴しくなっていくような、一種天才肌のところがある。そうしたところを、もっと聴きたい。
シューベルト:さすらい人幻想曲、他

シューベルト:さすらい人幻想曲、他

リスト:ピアノ・ソナタ

リスト:ピアノ・ソナタ

音楽に正しい聴き方はあるのか

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

評判どおり、洵に刺激的な本だった。主にクラシック音楽を題材に、音楽を聴く姿勢について徹底的に論じている。名著と云っても、さほど過褒でもないかもしれない。ただ、著者の論がきわめて(殆ど反動的なまでに)オーソドックスなものであることは、指摘しておくべきであろう。音楽は単に感覚的なものではない、それは「読む」ものでもあり、(音楽の)「言葉」で構成されたものでもあると、著者は述べる。(そこに、演奏することについても聴くことについても、「文化」や「伝統」というものが現れてくる。)だから著者は、音楽を聴いたら積極的に言語化すべきであるとも云う。そこで、音楽を聴いて、沈黙すべきだと言った小林秀雄が非難されたりもするのだが、ここはボタンの掛け違いで、沈黙の果てににじみ出てくる言葉を重視した小林の言うことも、一理あるとは思うが。ただ、「無自覚なままに自分だけの文脈で聴かない」と著者がいうのは、これは賛成だ。人によって音楽の聴き方はさまざまであり、自分の聴き方だけが正しいとするのでは、確かにつまらない話だ。言葉によって他人の聴き方を想像し、自分を開いていく姿勢が、大切なのだと思う。