ふたたび貧困問題について

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

前回のエントリーに続き、また現代日本の貧困問題についての本である。これも、今の自分はたまたまそのような貧困のスパイラルに陥っていないだけで、まったく人ごとではないと思わずにはいられなかった。だいたい、今の日本にどれくらいの貧困層が存在するかということさえ、公式には国は把握していないという。「貧困」というものが存在していては困るからだ。貧困層は、社会的に見えない(invisible)存在になっている。ワーキング・プアの問題でも、今に始まったことではない。だから、今の百年に一度といわれる不況は、逆説的だが、このような問題が存在することに光を当てるチャンスになっているとすらいえると思う。(自分を省みても、このような状況になってからこんな本を読んでいるのだから、大きなことはいえない。)問題をあえて国家の繁栄に限ったところで、労働者がまともに生きていけない国家に、長期的に見て繁栄などあるだろうか。ましてや、我々には、最低限人間らしく生きる権利があることはいうまでもないのである。
 この本については何も語らなかったが、静かな怒りとでもいうようなものによって書かれた、爆弾的な本である。いろいろ蒙も啓かされる。例えば、ホームレスの人など、住むところがないので生活保護は受けられない、などと役所がいうのは普通であるが、これが明白な法律違反だということを、いったいどれくらいの人が知っているだろうか。
 とにかく、きちんと働いているのに生きていけない、というのは絶対どこか間違っている。企業だけが栄えて労働者はまともに生活できない、などというのは本末転倒だが、だれもが(正社員すらも)そのような恐怖にさらされ始めてきているのだ。「貧困は自己責任」などということは、そう簡単に言ってよいことではなくなっている。発想の転換が必要とされている時代になったのだと思う。
※自立生活サポートセンター・もやい http://www.moyai.net

派遣と貧困について、小声に少しだけ

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

リーマン・ショック以前の本だが、派遣労働者と貧困など、問題は既に出尽くしていたことがよくわかる。まったく人ごとではないと痛切に思わされた。何となくみんなの思い込みの中に、一流企業だからそんな酷いことはしていないだろうとか、法律に反した待遇などしていないだろうとかいうのがありそうだが、世界的な一流企業といわれる会社が、しばしば労働者を物以下に扱っているというのは衝撃的だ。(こちらの認識がナイーヴだったということか。)それにしても、いまテレビなどで、企業が派遣労働者に対して、契約期間が残っているのに解雇するなどという報道がよく見られるが、どうしてマスコミは、それが違法行為だと付け加えないのだろう。まがりなりにも、「一流有名企業」ですよ? そんなことでいいのか?
 生きとし生けるものに対する、愛がないのだな。誰もがふつうに、ごくあたりまえに生きるということのかけがえのなさを、それぞれが自覚することの大切さ。
雨宮処凛ブログ http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/
※ 同 ホームページ http://www3.tokai.or.jp/amamiya/
萱野稔人の連載 http://blog.yomone.jp/kayano/

空爆の歴史

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

空爆の歴史―終わらない大量虐殺 (岩波新書)

飛行機が初めて戦争に用いられたのは第一次世界大戦においてだったが、空爆が本格的になされたのは第二次世界大戦を以て嚆矢とする。その当初から、民間人を含む無差別爆撃への正当化として、爆撃の恐怖による気力の喪失が唱えられて(ドゥーエ・テーゼ)、今に至っているというのだが、実際は爆撃による戦意の喪失よりも、却って敵愾心や戦意の高揚すら見られるというのが、どうやら本当のところらしい。というのに、今でさえアメリカは、このドゥーエ・テーゼを持ち出してきて、無差別爆撃を正当化している。ちょうど、うまい言い訳になるからであろう。
 確かに日本は大戦中、中国の奥地に向けて無差別爆撃をかなり行っている。弁解の余地はない。また、イギリスやフランス、イタリア、ドイツその他もそうだ。しかし、空爆の歴史を考えると、それはほとんど、アメリカの空爆の歴史と言っていえないことはないくらいだ。それは主なものでさえ、第二次大戦のドイツ、日本に対するものから、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などが挙げられる。その中には原爆、また、ナパーム弾やクラスター爆弾など、悪質なものが含まれる。
 そもそも戦争に等級をつけるというのはおかしいと言われるかも知れないが、高高度から自分の手を汚さずに民間人を殺せる空爆という戦争手段は、どこか卑怯者の戦争の仕方という気がしないでもない。まさにアメリカにぴったりの戦争手段、ともいえようか。自国の損害は最小限、敵の損害は最大限、なにが悪いか、というわけだ。また、上の空爆対象の列挙からもわかるように、ドイツ人に対して以外は、すべて非白人種が対象になっている。これは果して偶然だろうか?

白洲正子と繊細な日本の美

一時起った白洲正子ブームがいまも続いているかは知らないが、そのブームも当然のことだったと思う。日本の美の姿を書き続けてきた人として、白洲正子から我々が学んできたことはきわめて多い。それにしても、白洲の送ったような美的生活から、自分が遠いことは限りないのであって、実際、白洲の書いているような日本人の繊細な美意識というものは、今でもどれほど失われずに残っているものなのだろうか。いや、少なくとも自分にとってどうなのだろうと、思わざるを得ないのだ。美術館には行って、日本のものを見たりもするのだが、白洲のいうとおり、日本の美というのは日常で使ってみなければわからないものだとすると、ほとんどお手上げである。すると、貧乏人には美は無縁かという、よくある通俗な議論になってしまうのだろうか。いや、白洲流にいえば、いまそこいらで手に入るものの中に美を見出せ、ということだろうが、それこそマス・プロダクションによって製造された既製品の中に、そのような繊細な美があるはずも殆どなさそうであるし、本書に出てくるような匠たちは今でも存在するのであろうが(そこのところも怪しくなっているのかも知れないが)、我々にはなかなか無縁な存在でもあろう。まこと、繊細な日本の美というものがこれからも生き残っていくのかというのは、痛切に知りたいことであるし、もし姿を変えるというのなら、どういう形態で残っていくものなのであろう。オタクとかなんとかいうあたりもそのような繊細な感受性とは無縁でないのだろうが、それは果して、見て見尽くすところに現れる美というものまで、昇華され得るものなのであろうか。

鈴木謙介を読んで少しサブカルを思う

雑多な本であり、雑多な感想を抱いたが、そのすべてを書こうとするのは無意味だろう。
 まず、社会学的な知見を披瀝した本としては、さほど言いたいことはない。この本の主題のひとつとして、日本の論壇における「新自由主義」なる概念の混乱の腑分けがあるが、個人的にはそんなことはどうでもよい。自分としてはベタに、小泉政権に始まる「新自由主義」なるものは、自分の生活を苦しくするものとして、また弱者から毟り取るものとして、かつても今も、単に否定すべきものであるし、それ以上のものではない。
 「ゲーム」の「ルールが変わってしまった」、ということについて。著者も混乱しているように見える。「能力主義」で「自由競争」、これはもう仕方がない、世界がこうなっているのだから、これで生きていくしかない、というのが著者の見解のようだが、それもまた「ルール」になっているのであろう。「制度」がこうなっている、というが、「制度」というのは外部にあるだけではない、むしろ我々の内部にこそ「制度」はあるのだ。我々の内にある「制度」をまず解体していくというのは不可能事ではない。社会が悪い、オレは悪くない、確かにそうかもしれない。しかし、「世界」と向き合っているのは、まさしく「自分」なのだ。そう、「世界」は確かに変えられる筈ではないか? 著者は(そして恐らくこの本の読者の多くも)まだ若いではないか。何のために若さはあるのだ。サブカルでまったりもよいであろう。しかし、本当にそれしかやることはないのだろうか。「動物化」と言ってシニックになっているだけでは、それこそ「家畜」の生であろう。
 では、どうするのか、だって? 政府とか社会とか、セーフティ・ネットだとか、いきなり大きいことを考えないほうがいいと思う。世界中のエリートたちが考えても、まだ正解はないのだ。まず自分の足元を見つめることから、自分たちがいかに(広義の)「制度」に捕らわれているかを知ることから、始めるしかないと思う。そして、勉強も。フーコーは、自分の著書が、何かと戦うときの武器のようなものとして使われることを望む、と言ったが、我々も、そのような武器を痛切に必要としているのだ。
 ところで、今の時代、そのような「武器」は果してサブカル(と社会学)に生まれるのだろうか。もしそうなら、そして著者もそれを望んでいるのだろうが、サブカルにも(社会学にも)それなりの意義があるだろう。時は流れていくのだから。

追記

後から読んでみると、説教調でみっともないな。まあ身も蓋もないことを言えば、本書は自分のあまり好きになれない型の社会学の書になっている。とにかく頭でっかちなのだ。だから、最後のところで著者の恥ずかしい感情生活が露頭するのも、なんとも幼稚で同情しかねるのである。まずそこのところからなんとかしろよ、と言いたくなる。まがりなりにも、我々はニーチェ以降なのではなかったのか。

貧困大国日本

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

弱者を騙し、弱者から毟り取る社会。アメリカはそんな国になってしまったようだし、日本も急速に後を追っているのが怖ろしい。「ネオリベ」(新自由主義)というのはそういうことなのだ。弱者は碌なものを食べられない、教育も受けられない、医者にも掛かれない。結局軍隊に入らざるを得ず、除隊しても心身ともに傷つく者が多い。民営化が社会を壊す。まったくこれはアメリカの話なのか、ほとんど日本の話ではないか。
 ネオリベとか言っている奴等、この本を読んでみろ。もしかすると、これこそ我々の望んだ社会だ、ネオリベ万歳とでも言うのか。アメリカも腐っているが、日本も腐り切っている。毎日のニュースを見よ、酷い話ばかりではないか。もはや社会をどのように設計するかなど、却ってどうしようもないのではないか。宮台真司はエリートを育てよというが、エリートのやることがこれだと思う。流行りの社会学に則って社会を変えるより、こうなるともう、個人を変えるしかないのではないか。そのほうが何ほどか早道のような気がしてならない。
 ※雨宮処凛堤未果との対談はこちら

大いなる罵倒の書

これは、批判の書というよりは、大いなる罵倒の書である。だから、なかなか読み始めるまで手に取り難かったし、読み始めても初めは読み進めるのに難航したりしたが、段々と慣れてくると、次第に吉本隆明の思考法とでもいうものがおぼろげに判ってくるようになってきたと思う。そこで痛感させられたのは、思想の全体性とでもいうものが必要だということだった。個々の事例はなんとかうまく捌けても、全体性のない思想は必ず間違えるということ。しかし、考え込んでしまう。自分が知識人であるともなかなか思えず、全体性のある思想など依然獲得できない自分など、一体どうしたら良いのであろうか。日々の仕事の中から、というのは一つの答えであろうが、けれども、日々の仕事の中から普遍性を取り出し得るような仕事をしている者が、今どれだけ存在するというのだろう。だれでもできる、取替えのきく仕事でない者は仕合せであろう。やはり、知識人であろうがなかろうが、勉強してそれなりの全体性を目指す以外、ありえないのだと思う。例えばマルチチュードなどというものに、希望を託す気など起きないのだ。
 つい中身のことは書かなかったが、ちょっとだけ述べると、第三巻では自分が追いかけてきた柄谷行人浅田彰が罵倒されているが、これは大変に興味深い仕方だった。少なくとも2ちゃんねるなどで見られる嫌らしい罵倒とは(当り前だが)まったく質のちがうものである。確かに、現在の柄谷や浅田の現状を予告するような批判になっていると思われた。それにしても、柄谷はいま、もはや言うべきことが何もなくなってしまったのだろうか?